施設百話
差別の果てにも物語は産まれる!見えない国の国歌が深く静かに流れはじめる。
Vol-24 カルネアデスの船板
Vol-25 社長と呼ばれた男
Vol-24 カルネアデスの船板
地図製図は才能よりも、性格がものをいうと朝枝は思った。どうしても自分が園田に勝
てないのは、才能や障害のせいではないのだ。出来上がるスピードに差はないのだが、ミスの少なさにおいて園田は群を抜いていた。指導員の町田は園田の注意力こそプロに求められるものだと、事あるごとに賞賛した。そしていつも町田の視線は朝枝に向いた。
園田が入所してきたとき、朝枝は歯芽にもかけなかった。生まれつき障害があり、いやというほど施設で暮らしてきた朝枝には、一見して園田にどれだけのことができるかが判定できた。くも膜下出血による縦半身麻痺の園田には妻も子供もいたが、面会にくることはなく、かといって園田が土曜・日曜に自宅に帰ることもなく、一人製図の練習を行ったしかし、線にはぶれがあり、どう見てもものになりそうにはなかった。朝枝は時々園田の練習に付き合い、優位者の持つ謙虚さで園田に接した。
園田の孤独な練習は続き、気がつくと線のぶれはなくなり、製図のスピードが上がった
それは予想を超える展開だった。あっという間に朝枝のナンバー1の席を侵食し始めた。
そんなとき、T社から1名障害者を雇用する話が舞い込んだ。誰もが園田か朝枝か何れかだと噂した。どちらが選ばれるかは、指導員の町田の推薦がすべてである。町田のここのところの両者の製図の仕上がりへの評価をみれば、朝枝には園田が選ばれることが見えていた。
障害者施設を渡り歩き30年を越えた朝枝にとって、2年前に入所したこの施設の地図製図の仕事こそが己を娑婆に出す切り札だと思えた。就職するのだ、そして同じ車椅子の美紀子といずれ結婚するのだ。中途障害で家庭もちの男などに奪われてはならなかった。
窓を開けると、裏庭に園田の妻と2人の子供が園田を囲んで弁当を食べていた。製図の技術への自信や、就職への推薦の期待がそうさせるのか、そこには幸せへの日差しが当たっていた。
朝枝の頭の片隅に、いつか読んだ本の一説があいまいに浮上しつつあった。遭難し海に放り出された二人が船板にすがり、どちらかが手を離さないと船板が沈むとき、相手を突き放しても罪とはならない。そう、罪とはならないのだ。なんとかの船板という論理だった。朝枝の頭に浮上滲みは広がり始めた。甲高い妻や子供の笑い声をBGMに、園田を沈める策略が土曜の昼下がりに出港しはじめた。
Vol-25 社長と呼ばれた男
男は常に上目遣いで見た。
神は「なんで身の回りのこともてきん奴が授産施設にいるんだよ、こんなの有り?」と言ったが、その男の卑屈な態度は謙虚さとして評価され、計算高いコミュニケーションは敵を作らなかった。
この男のため、年老いた神父が月に1回やってきた。2人きりで、相談室で十字を切る姿を、誰もが渡り廊下から見た。榊は「こんな所でアーメンかよ」見るたびに吐き捨てたが、その男は多分みんなに愛されたのだ。
いつのまにか社長と呼ばれていた。
軽度の障害者達は、社長秘書みたいにその男に尽くして身の回りの介護を行った。
神父の横で奈緒美は時々満ち足りた笑顔を見せた。その際は必ず社長を一瞥した。社長も上目遣いの顔をほころばせて笑った。2人きりの儀式に奈緒美が加わって半年が過ぎていた。
奈緒美と出来ている榊は、秘書のように社長の手伝いを始めた奈緒美にいやな顔を見せたが、まだ余裕があった。「お前も物好きだな」と榊はいつも皮肉を言ったが、奈緒美は「障害者は助け合わないとね」と笑った。20以上も年上で頭の禿げ上がった重度の男へ尽くす事に榊もそれ以上はふれなかった。
夏が過ぎた頃、奈緒美は儀式への参加を始めた。榊は切れた。しかし、おとなしい奈緒美が頑として聞き入れなかったのだ。2人の間に隙間風が吹き始めていた。酒癖の悪い榊は時々時々奈緒美を殴るようになった。それでも奈緒美はぶれなかった。
不思議な光景だった。理屈や宗教などとまったく無縁な女であるはずの奈緒美が、日に日に、香りを発しだす花のように見え始めた。酒臭い息を吐き目を据える榊は、蛾のように見えた。
榊の退所が決まったのは早かった。奈緒美が血を流して当直室に駆け込み、救急車が呼ばれ、消灯後にもかかわらず誰もが起きだし、寮は騒然となった。加害者の榊は相談室に鍵をかけられて隔離されたらしく、いつも奈緒美達が十字を切ったその部屋は電気がついていたが、薄汚れたカーテンが榊を隠していた。
あの夜、救急車に乗り込む奈緒美と当直の職員を見送りながら、ふと横を見るとその男が上目遣いに奈緒美を見ていた。顔がかすかに笑っていた。その男と視線があった。「ひどい男だね」かすれたような声でその男は言った。そして十字を切った。「こんな時アーメンかよ」俺は腹の底で言った。