施設百話
差別の果てにも物語は産まれる!見えない国の国歌が深く静かに流れはじめる。
Vol-1.光のラブレター
Vol-2.スクランブル交差点
Vol-3.ルビーの指輪
Vol-4.弁慶
Vol-5.みゆき
Vol-6.いっしゅんの夏
Vol-7.真夜中の忘年会
Vol-8.兄ちゃん、もうちょっと生きてみるよ
Vol-9.アンパンマン
Vol-10.ストライキ
Vol-11.9月のブルース
Vol-12.あの星の数だけ
Vol-13.猿の惑星
Vol-14.背広
Vol-15.クリスマス
Vol-16.キリスト
Vol-17.セブンブリッジ
Vol-18.オルガ
Vol-1 光のラブレター
その日、いつまでも号泣する英幸の前で、職員は途方にくれたという。同じ入所者の佳世子の死を哀しむには激しすぎた。入所者の中でも最重度の二人は、建物も分かれ、施設内で直接顔を合わせることは年に1回あるかないかである。なのに、英幸の嘆きはしばらく続いた。
英幸の同室の信彦は深夜目覚め、深いためいきをつく英幸に話かけた。聞き取りの難しい英幸との会話は長引いたが、佳世子も英幸もそれぞれの部屋の窓際のべットにいた。わずかに右手の自由がきく佳世子は、そこから見える英幸のいる部屋をながめていた。クリスマス会で見たおとなしそうな目をした英幸が、そこにいることは知っていたが、会いにいくことなどかなわなかった。
ある日、小さな鏡で光りを反射して英幸の窓に当てて見た。ちよっとうれしかった。なんだか自分の分身が窓を叩くような気がした。やがて、ひらがなで字を書いた。
「こんにちは」
相手に伝わるかどうか自信はなかった。しかし、その日から、雨の日、雲の多い日以外、佳世子は光の字を送り続けた。
「げんき?」
そのたび胸がキュンとした。人には話さなかった。産まれて初めて秘密が持てた気がした。それがとてもほこらしかった。1年が経つた。
「いつかここを出ようね」
光の文字には、希望がこめられはじめた。その矢先、病魔は佳世子を襲った。
ある日、部屋替えで英幸のべットを移動しようとした時、おとなしいはずの英幸は食事を拒否して頑強に抵抗し、職員をてこずらせた。
それから5年後英幸は呼吸困難で死亡した。
Vol-2 スクランブル交差点
その朝、男子寮と女子寮が交差する、スクランブル交差点と呼ばれている場所に昌代の姿はなかった。いつも昌代はそこにいた。誰よりも早く、誰よりも遅くまで居続けた。そこに居れば、施設内の人々の行き来がすべてわかった。リクライニングの赤い車椅子の昌代にとって、そこは居場所になっていた。そして20年がすぎていた。
昌代のいない交差点は、みんなに不思議な感覚を与えた。昌代のいた空間には誰も車椅子を止めることなく、まるで、そこにいるかのように振舞った。噂が流れた。片思いの相手はそれぞれ違っていても、思いが届かぬことを悲観した自殺未遂だということでは一致していた。
職員は一笑に付した。
「べットから落ちただけよ」誰もが、判を押したように言った。しかし、障害者たちは昌代のための物語をつくりりはじめていた。
昌代は生まれつきのCPだった。5才のころから施設にあずけられた。親の面会は10代後半になると途切れ始め、ここ4、5年は誰一人訪れるものもなかった。
スクランブル交差点の昌代の場所からは玄関が見えた。それでも昌代は面会者を待っていたのだと、訳知り顔で言うものがいた。いや、思い定めた人の行き来を見ているだんと言う者もいた。
昌代の入院は意外と長引いた。その間障害者の間で物語が完成していた。相手役は職員の村田だった。村田は否定したが、園はこの事態を受け、わざわざ園長じきじきに、べットからの転落事故である旨の通達をおこなった。
昌代は半月ぶりにそこにいた。コミュニケーションが取れない昌代は、いつものようにそこに居た。昌代の恋物語をつくった障害者たちは、右手首に包帯を巻いたアイドルの帰遠を、静かに喜んだ。
Vol-3 ルビーの指輪
国雄は、外出というものをしなかった。障害はそれほど重度でもなく仕事もそこそこに出来、職員の覚えもめでたかった。しかし、ほとんど口をきかず、自己の世界に閉じこもるので、人からは嫌われた。金もほとんど使わず、年金の貯金額はよく噂になり、ケチ雄と呼ばれた。
年に2回国雄は倒れた。てんかんだった。倒れるたびに国雄の性格は狷介になって生き、もうほとんど誰も国雄の笑顔を見ることはなくなった。施設に入所して22年が経ち、国雄は不感の年を迎えていた。
さやかはその施設に来るボランティアの中では少し変わっていた。派手な衣装と化粧は職員の反感を買っていたが、誰彼の区別なく、気安く声をかけ入所生からは慕われていた。さやかは国雄にも声をかけたが、国雄が声を返すことはなかった。さやかはそんなことには無頓着な様子で訪れるたびに声をかけた。何故か私と国雄の部屋は居心地がいいらしく、かっぱえびせんをポリポリと音を立てては私とオセロをした。勝てば笑い、負けても笑った。ひとときの幸せが満ちてくる気がした。国雄が外出でもすればいいのにと何度も思ったが、国雄はつまらない顔でさやかがいる間は部屋を出ることは一度もなかった。
大学を卒業し、関西に就職が決ったさやかが、ボランティア仲間と最後に挨拶に来た日、いつものように派手な衣装でさやかは私たちの部屋にやってきた。その時私に電話がかかり部屋を出て戻ってみると、珍しく国雄がいなかった。さやかが初めて見せる真剣なまなざしで私を見た。「指輪をもらっちゃった、もらえないというんだけど、彼泣いてて、言えなくてごめんなさい。あなたから返してください」さやかの手のひらの指輪のきらめきにぼうぜんとしていると、廊下で誰かが叫んだ。走っていく職員の足音が私の鼓動と重なったとき、国雄のてんかんの発作だと直感した。
あれからさやかが現れることはなかったし、手紙が来ることもなかった。あの日きらめいた指輪を国雄に返せなかった。いつかはと思いつつ、2年が経っていた。国雄も相変らずだ。ただ、一度だけ国雄の笑顔を見た。流行っている寺尾聡のルビーの指輪をTVで見ていた国雄が笑った。いとおしそうな笑顔だった。もしかすると、国雄は指輪を渡すことで恋を手に入れようとしたのではなく、失恋を手に入れようとしたのではないか。
一瞬そう思えた。
Vol-4 弁慶
その男は「弁慶」と呼ばれた。大柄な体は、その左腕と左足が失われていても、車椅子の上で右手を水平に広げ、酒焼けのどす黒い顔でにらみつけられると、誰もが息を飲んだ。食堂や授産の仕事場と、寮とをつなぐ廊下は、寮に向かって穏やかな坂になっており、屋根はあるものの左右の壁はなく、開放的な空間は風を通し、時には横殴りの雨も運んだ。
その施設において一番人の行き交う廊下は、京の五条大橋になぞらえられ、毎週土曜日の夜に酒に酔い、突然人の前に立ちはだかり、行方をさえぎる男はにらみをきかした。女たちの中には泣き出すものもいたし、威勢のいい男たちの中には怒鳴り、殴りかかるものもいた。職員がやってきてそのたび混乱を収めはしたが、毎週土曜日必ず騒ぎは起こった。強制退所にならなかったのは、普段はおとなしく、元大工の腕前をもって入所者の頼みに応じては壊れ物を修理したからだ。
修理の際のその男の横顔は、施設で見られることのないプロの真剣なまなざしが支配し、その頼もしさと腕のよさは入所者のみならず、職員も一目置かざるを得なかった。
「奥さんに逃げられたようだ」
「元ヤクザらしい」
「重度のアル中で入院させられるようだ」
ジグソーパズルのように、噂や憶測の体積はその男の「人間の形」をつくり、男を迎え入れる物語はほぼ完成したが、何故土曜日にそして何故人の立ちはだかるのかというピ−スがなく、ジグソーパズルは完成することがなかった「肝硬変でね。死ぬ前は全然酒は飲まなかったらしいけど、病院でも弁慶の役はやってたらしいよ。相変わらず土曜日にね」
何度か男に殴りかかった淵崎はしんみりと言った。
私が男の居た施設を出て15年が経っていた。一度だけ男が立ちはだかったことがあった。あの時視線が合った。なぜあの時私は弁慶を恐れたのだろう。突き刺すようなまなざしに、私は躊躇した。いやたじろいだ。男は無言で問うたのだ。その時、私はわれを捨てて問わぬばならぬものを持たないことを一瞬で悟った。
「酒はほどほどにしないとな」
淵崎はため息をついた。男は何を問うてたのだろう。言葉にならなかった問いは、最後のピ-スを探す男の旅ではなかったのか。淵崎が電話を切った後、しばらくして、私は弁慶と同じ年になっていることに気づいた。
Vol-5 みゆき
次から次へと相手が変わった。あるときは松葉杖のケチな男だったり、車椅子のほらふきだったり、すぐに入所者の女に手を出す小太りの職員だったりした。男がいても、新しい男の入所者には必ずちょっかいを出した。
女たちは蛇蝎のごとくみゆきを嫌ったがまるでゲームのように男を手玉にとるみゆきに、恨みもつらみも届くことはなかった。半年ほどするとゲームオーバーになって、次のゲームが始まる繰り返しに男たちも切れたが、みゆきは淡々としていた。
「つまんない男をわざわざ選んでほれてるみたいだね」そう言った僕の顔を、すーっと、睨んだみゆきの透明な視線が夏を涼しくした。
「つまんないけどさ、つまんないからもしかしたらって」そう言って少し笑った後、矢を放った。放たれた矢は、小鳥の鳴き声を突き抜けて畳に張られた的の中心部に着地した。
車椅子の肘掛に座って、アーチェリーをするみゆきは寡黙で、立ち現れる過去を射る狩人に見える。
「もしかしたらって言うと」
「つまんないけど、もしかして、つまんなくないんじゃないかって思ってしまう」
「じゃあ、最初からつまんなくない奴に惚れればいいじゃん」
「つまんなくない奴って、もしかしたらって思う」
次の矢をつがえながら、みゆきはいらついたように吐き捨てた。
「何が、もしかしたらだよ」
ニ本目の矢が放たれた。小鳥たちを威嚇するような勢いで飛躍したが、的をはずれた。 「あんたには言ってもわからない」
7時とはいえ、温度が上がってきていた。みゆきのかさついた唇に汗が吸い寄せられていた。夏に朝などないのだ。
「何で半年ごとに男変えるんだ」
3本目の矢を放つ寸前のみゆきの目は、もう的しか見ていなかった。
裏口の方から矢を引きずる音が聞こえた。退屈なアーチェリーの練習に人が集まりはじめていた。この矢が放たれたら、多分俺もゲームオ−バーだ。矢が放たれた。
俺はみゆきの顔を見た。的を得たのかどうか、表情から窺い知れなかった。唇がぬれていた。
Vol-6 いっしゅんの夏
隣の空白のべットは、なんだか場違いな空気を作り出していた。
あと3日もすれば恒夫に代わる障害者が入所し、いつもの空気に変わるのだ。そう、いつもの空気。深いあきらめの中の安定ってやつだ。怖いものは退所だけ。恒夫はその空気を象徴する存在だった。ここには季節がなかった。心にそよ風が吹くこともなく、己れを焼き尽くす夏もなく傷痕を包む秋もなく、明日を思う冬もなく訪れぬ季節は平板なひらひらした心だけを生産し続けるのだ。恒夫はひらひらと生き抜いていた。人の悪口をバランス良く言いふらし、職員への告げ口はCIAの潜入捜査並みに絶妙を極め、恒夫の位置は職員への覚えめでたく、入所生からは畏怖され万全だった。長い施設暮らしは恒夫の処世術に磨きをかけ、このまま施設でひらひらと一生を終えて行くのだと誰もが思っていた。いや、恒夫自身がそう確信していたはずだ。その恒夫が職員にナイフを向けた。職員の傷は大したこともなかったが、権威を犯されたことに、また有りうべからざる季節が訪れたことに管理者達は怒り、そしてうろたえた。原因は隠され、恒夫はその日に家に帰され、翌日恒夫がもっとも恐れた退所が決定した。
その夜、空白になったべットを眺めていると、あの日の恒夫のまなざしが思い浮かんだ。コーラにウイスキーを入れ消灯後恒夫と喋っていると、恒夫は珍しく酔い、家に帰るくらいなら死んだほうが言いと吐き捨てた。その時ラジオから、秋田弁丸出しのフォーク歌手が「生きてるって言ってみろ」というフレーズをくり返した。恒夫に言った。
「俺たち生きてるかな」
その時の恒夫の深いまなざしは、タブーに触れた者を諌める悲哀が感じられた。
翌日から、自分に対する職員の態度が変わった。恒夫のCIAが働いたのだとすぐ悟った。
「あいつのことだから別の施設でまたCIAをやるさ」
向かいのべットの男が言った。強い陽射しがべットを突き刺して施設は死んだように静まり返っている。季節のない心を選んだ恒夫に、何故一瞬の夏が訪れ、ナイフがきらめいたのだろう。3日後、新しい入所者が家族や職員と共にやってくる足音が聞こえてきた。ひらひらひらとそれは近づいて来た。
Vol-7 真夜中の忘年会
信二郎さんは中途障害で、小さな頃からの障害者が多いこの施設では、少し煙たがられていました。気に食わないと職員にも文句を言いました。職員には逆らってはいけないと思いこんでいる他の障害者には、その事自体が怖くもあり、誰も信二郎さんには近づこうとしませんでした。 信二郎さんは酒が好きでした。しかしこの施設では、酒が飲める曜日と時間と場所が決められていました。その事に不満だった信二郎さんは、近づく施設の忘年会の日は、一日中飲むぞと張り切りました。演歌が好きなので、ギターの練習をし、本番で歌ってみんなを驚かせ、みんなと仲良くなるきっかけにしようと秘かに思っていたのです。信二郎さんが待ちわびた当日、忘年会にはお酒が出ない事が分かりました。しかもお酒が飲める曜日でもないので、この日一滴のお酒も飲めない事が分かりました。信二郎さんは職員室にお酒を出すように言いにいきました。
「俺達は子どもじゃないぞ」
信二郎さんが叫びました。若い職員が笑いながら言いました。
「子どもじゃないなら今すぐ施設を出て生きて見たらどうですか」
「嫁さんに逃げられ、子どもも寄りつかんのにどうして暮らしますか」
信二郎さんはもう何も、言いませんでした。うなだれて部屋に帰り、ギターを窓の外に投げ捨てました。
盛りあがらない忘年会も終わり、消灯の点呼も終わった後、布団をかぶっている信二郎さんの元に2、3人の障害者が訪れ、呼び出しました。洗濯場の裏に出ると10人位の障害者が集まっていました。信二郎さんは緊張しました。車椅子の陽平が言いました。
「信二郎さんは本当の忘年会を今からしましょう」
良く見ると、昼飯のおかずの残りや、忘年会の残りもののつまみが揃っていました。女性の障害者達が作った手作りの品もあります。
「とにかく乾杯だ」
陽平が言うと、信二郎さんにもコーラのビンが渡されました。飲んで見るとコークハイでした。2杯3杯飲むと、信二郎さんもみんなも顔が赤くなり、笑顔が出始めました。
「なぜこんなことを」
と、信二郎さんが聞きかけると、言語障害のある義男が言いました。
「今日職員室で信二郎さんが俺達って言ったのを聞いて、みんなで何となくこういうことをしようって」
忘年会は真夜中まで続きました。その間、信二郎さんは歌を3曲歌い、小さな拍手を浴び3度ほど涙を見せました。
Vol-8 兄ちゃん、もうちょっと生きてみるよ
知的障害がある弟の達矢が施設から外泊で帰ると兄は不機嫌になった。母は特に変わらなかったが、達矢が帰省した夜は、鯨の肉に変わり牛肉入りのカレーを作った。
父は常に沈黙で、食卓が華やぐ事は無かったが、達矢の立ち居振舞いは時に家族を荷立たせ和まぜた。40年前のあの夕餉の中で、自分はどんな顔をしていたのだろう。焼香が続く中で、機械的に頭を下げながら私は記憶をたどっていた。
隣の部屋で、母の遺品の処理をめぐって、女たちが低い声でやりあう声が聞こえた。弟の一挙一投足に眉をしかめる兄にうんざりさせられ弟に話しかけながらも視線をまったく合わすことのない兄嫁にカンがさわり、たどる記憶の糸は切れ切れになった。
「美也子も達矢のことが心残りだろうにな」
作蔵が酒臭い息をふき掛けて寄ってきた。母の嫌った叔父だった。
「あたしが逝く時は達矢を連れて逝く」
それが母の口癖だった。達矢もいつしか
「お母さんと一緒に逝く」
といい始めるほどだった。そしてそれは達矢のまじないのような言葉になったのだ。
何週間前になるのだろう。達矢を含めた最後の夕餉の時、達矢がいつもの調子で
「お母さんと一緒に逝くもんね」
といった時。母は食事を止め、正座をし深々と達矢におじきをし言ったのだ。
「達矢さん、どうぞ一人で逝かしてください」
皮肉も自嘲も無く、ひそやかになにものかが舞い降りたような母の横顔を私は見た。
私も弟を遠ざける兄を疎んじながら兄嫁のように丁寧に達矢を疎んじていた。ある日、兄へのあてつけで、聞きたくもない達矢の話しを聞いていた。話しに脈絡などなく聞き流していたが、何度も何度も繰り返されるフレーズが私を捕らえた。
「兄ちやんがいくつの時、兄ちゃんが何年生のとき、兄ちゃんがケガした時、兄ちゃんが、兄ちゃんが・・」
達矢の話しのすべての物差しに私はなっていたのだ。
私は見られていた達矢を恥じていた事を。私は思われていた達矢を遠ざけても。そう思えた瞬間、なにものかが私に舞い降りたのだ。
翌日達矢と生まれて初めて町を歩いた。気付くと私は達矢の手を引いていた。隣の部屋の声は、母の着物の所有をめぐって、声が段々と大きく成りつつあった。叔父は益々酒が進み、母の生前の生きかたへの皮肉っぽい物言いが強まった。私は立ちあがった。達矢を手招きすると両手をぶらぶらさせながら寄ってきた。私は棺おけのふたを開けて言った。
「達矢、母さんと一緒に逝くんだろう、ここにはいれ、一緒に逝けるぞ」
しばらく母の顔を眺めて、達矢が言った。
「兄ちゃん、もうちょっと生きてみるよ」
私は笑った。笑ったのに、すーっと涙が流れた。母が死んで初めての涙だった。
Vol-9 アンパンマン
コンビニに朝、昼、夜はないのだなと博光は思った。まもなく0時を過ぎようというのに、店内は10人を越える客がいた。
「早く決めないと明日になっちゃうよ」
女のいらつきかけた声に男はヘラヘラと笑った。
パンのあるところに行くと3個残っていた。手に取るとアンパンだった。博光がひとつ大きなため息をついて時計を見るとあと2分で0時になろうとしていた。アンパンだけ買って、すぐ外に出て食べれば間に合うと思っていたが、レジを見ると3人並んでいた。0時までにまにあいそうもなかった。
その場でアンパンのビニールを破った。その瞬間、CP特有の附随運動が起きた。博光は横向きに倒れ、頭が若い男の左足に当たった。
「マジかよ」
男はヘラヘラと笑った。ビニール袋か飛びでたアンパンが転がってレジの方向に向かうのが、博光の視線に入った。
施設時代も博光はよく転び、転ぶたびに周りの者に笑われた。令子はどうだったろう。笑ったろうか。思い出せなかった。女の子のほとんどに嫌われていたが、令子だけは妙に優しくしてくれていた。
あの日の夜、令子がくれたプレゼントは新聞紙に包まれ、どこで手にいれたのか、リボンがまいてあった。中身はその日の昼の食事に出ていたアンパンだった。産まれて初めて人から貰うプレゼントだった。
2月14日は、その日から博光にとって特別の意味を持つ日になっていた。
施設を出て以来、令子に会うことはなかったが、バレンタインデーの日になると、必ずアンパンをひとつ買い食べた。
レジの方から女の店員が歩み酔って来た。途中で腰をかがめるとむきだしのアンパンを拾った。
「大丈夫ですか」
間延びした声と共に立ちあがり、博光の側に来ると、座り込んでいた博光の右手を持って立たせようとした。
博光はその手を払いのけると、店員の左手にあるアンパンを奪った。その素早い動きに店員は事態の了解ができずにいた。アンパンは博光の口にくわえられた。博光はアンパンをほおばったまま再び時計を見た。
「ほら、0時過ぎたじゃん。やっぱり二日がかりの買い物になったじゃん」
若い女は完全に不機嫌になっていた。それでも男はヘラヘラとしていた。店員が後を振り向くと、レジを休止した男の店員が、親指と小指を立てて、耳と口に当てた。
「大丈夫です」
女の店員が少し口調を早めて言った後、博光を見た。
「すいません。レジの清算が終わってから食べてもらいますか」
緊張感のない口調に戻って女が言った。
Vol-10 ストライキ
モリケンと呼ばれている寮母は、とにかく探し出すのがうまかった。買い食いが禁止されている養護学校の寮は、常に腹を減らした者たちが密輸を計画し、軽度の障害者が闇にまぎれ調達に走った。貴重な食料品は隠され、秘かに売り買いされた。20円で仕入れられたソーセージは50円で売られ、重度の障害者は争うように購入した。
義男は重度だったが、計画を立て的確な指示を出し、密輸で稼いだ利益を、歯磨き粉も買えない者のために使うので、誰もが指示に従った。時々、モリケンの手によって、摘発されたが、その中心に義男がいることは隠し通されて来た。しかし、モリケンの追求は厳しく、品物を発見された何人かは脅され、口を割らされた。
その日から、義男へのすべての職員の眼差しが変わった。一部介護が必要な義男にとって、つらい日々の始まりだった。介護を拒否され、みんなの前で無力さを強調するように、つまらない事でおこられた。密輸ルートは破滅し、義男はつらい日々を過ごし、これをきっかけに、寮の規則は一層厳しくなった。そして日々モリケンのご機嫌は良くなった。噂が流れた。厳しくなった規則や、密輸ができなくなった腹いせに、義男が仕掛けて、日曜日の夕食を寮生全員で食べないという。日曜日のストライキが成功すれば、何かが変わるはずだ。寮母たちが慌てるはずだという空気が寮内に充満した。
日曜日が来た。夕食に全員が揃った。モリケンが「いただきまーす」と甲高い声で言った。みんなが後に続いた。一瞬妙な間があいた。誰もが顔を見合わせたが、それは一瞬に過ぎなかった。一人が食べ始めると、それは堰を切った。普通の夕食風景が現れた。一人義男が唖然と食器を見つめていたが、少しため息をつくと、箸をとった。それを見て、モリケンが笑った。
「みんなちゃんと噛んで食べなきゃだめよ」
弾んだ声で言った。
「義男君もいっぱい食べてね」
継母のような笑顔でモリケンが義男を見た。
その日の消灯後密かに義男の部屋に密輸の中核メンバーが集まった。
「モリケンにはストライキに失敗して義男は泣いてたよって言っといたよ」
ストライキの噂を流した寛次が言った。
「モリケンは全然気付いてないよ。ストライキはつぶれ、これでもうお前が逆らうとは思いもしないさ」
買い出し役の秀吉が言った。
「よし予定通りだ。密輸を再会しよう」
義男が少し笑って言った。
「これがリスト、それと今月の儲けは、洋子のしもやけがひどいんで靴下代にしようか」
「パンツがいいんじゃない」
寛次が言った。みんなが小さな声で笑った。
Vol-11 9月のブルース
城戸和正の左頬には、昨夜は見られなかった紫色の染みが2箇所あった。小便の匂いと焼酎の匂いが充満した布団を少し剥ぐると、ひとまわり小さくなった体が猫の様に閉じられていた。2人部屋のドアを空けたときから、城戸和正が死んでいたことなど判っていたように、私はうろたえない自分に少しうろたえた。相部屋の甲斐久男が、かすかに石鹸の匂いをさせながら私の後ろに立っておなじみのセリフを投げた。
「こっじや今日も仕事はできんめえたい」
言い終わらぬ内に私は小さく叫んでいた。
「甲斐さん、アメリカにおらす姉さんの話しだけはほんなこつですよね」
城戸正和の肩を揺すろうとした甲斐久男が小さく息を飲みこむ音が妙にリアルに聞こえた。
その日、その施設は何一つ平常と変わる事は無かった。自衛隊上がりの年老いた嘱託職員が一人城戸和正の始末をつけるために動いていた。昼休みに情報を仕入れて来た甲斐久雄が不機嫌そうに私にささやいた。
「身寄りのおらんげな。おっても親類じゃなかていうげな」
「葬式はどげんなるとですか」
「お前がいかんか。誰も行きだがらんたい」
「アメリカのお姉さんは」
「あれもホラたい。決まっとろうもん」
2人の会話をかぎつけて城戸和正をバカにしきっていた椿善郎がさび付いた車椅子を軋ませて近づいてきた。私はトイレに向かった。椿善郎が少しドスを聞かした声で言った。
「おい、トイレなら工場長に言うていかんと怒らるっぞ」
トイレには向かわず、裏口から外に出た。タバコを咥えると9月にしては珍しく涼しい風が吹いた。しまったと思った時は自衛隊上がりが近づいていた。
「聞いとるか、城戸君の葬式は職員を代表して私と三村工場長と行かんなんげなたい、よそわしかな」
「寮生では自分が行きます」
「ほんならあとで打ち合わせばすっか」
緩慢な動きでドアに向かった職員に、私もフイルターに火をつけた煙草を捨てながら言った。
「死んだ50の男に君付けはやめんですか」
Vol-12 あの星の数だけ
「またあの子のことですよ」
電話を切ると妻の由里子は振り向きもせず言った。
「石を投げたのか?」
返事は返ってこなかった。もう一度聞けば、とがった口調で、民生委員を辞めろというに違いなかった。左肩を少し突き出して顎を寄せ、半身に近い感じで歩くレイコは、知的障害の施設から追い出され街に戻ってきていた。日がな一日街を歩いては、投げたり、民家のドアを叩いては、トラブルを起こし続けた。
気は進まなかったが、訪問せざるを得ず、玄関を出た。門のブロックに目をやると、今日も小さな数字が書きこまれていた。半月前から毎日のように続くいたずらに、由里子は警察に言うと息巻いたがそのままになっている。見送りにも出てこないので、今日にでも連絡するかもしれないと思うとため息が出た。レイコの家へはニ度目の訪問になる。半月前、民生委員になってすぐ訪問をしていた。父親との二人暮しだった。父親との会話は弾まず、帰り際にレイコに声をかけると、それまで口を聞かず無関心を装っていたレイコがいった。
「おっちゃんはなにが楽しいの、なにかあるの?」
22才のレイコはショートヘアーで、以外に凛とした顔立ちだった。ピンク系のワンピースが小麦色の肌をより一層湧きたてた。常に歩き回るせいか、白い靴下のかかとが格子のようになっていた。顎を引いて見つめるレイコに、私は少しうろたえ、沈黙の空白ができたことに、さらにうろたえて応じた。
「何も楽しみはなくてね。たまに星を眺めて酒を飲むくらいですかな」
それから、レイコは堰をきったようにしゃべり始め、私は答えながら、ふと何度も同じ質問が繰り返されてるのに気づいた時、父親がレイコを強い言葉で止め、私は家を出たのだった。
コンビニの角を曲がると、レイコが家を出て歩き始める後姿が見えた。父親だけの方がいいかも知れないと思い、声をかけず、しばらくレイコの後姿を見ることにした。遠ざかる背中を見ていると、小さな酸素を寄せ集め、なにものかが海上に浮上するように心の片隅に現れた。もしかしたら、あの数字は毎日の星の数を教えてくれているのではないのか。薄くなった目を凝らしレイコの背中を追った。角を曲がって姿は消えた。
Vol-13 猿の惑星
和雄の視線はいつも上目遣いだった。どんな些細な事も職員に伝えた。和雄のせいで、退所になった奴が3人いた。和雄の権力には誰もがひれ伏した。和雄はコークハイが3杯目になると、凄みのある上目遣いのまま言い放った。
「俺どんな、利口な猿にならなんたい」
誰もが憎しみを押し隠し、相槌を打った。畏怖され嫌われた和雄にも惚れた女がいた。車椅子の女にしては珍しくスカートしかはかなった。30近くになろうといているのに、どう見ても20そこそこにしか見えず、明るいキャラクターと、和雄にもずけずけと物をいう振舞いは、結構人気があった。和雄とけんかした時、雅子は言った。
「あんたは猿の惑星の王様たい、ばってんあたしは人間やけんね?」
誰かが雅子にささやいた事があった。
「あげなスパイごたる男のどこがよかつね」
雅子は珍しく暗い表情で答えた。
「最低の男たい。ばってんここでの生きかたば決めとろが。人にぺこぺこさせながら腹の中で憎まれとるこつも承知して引受けて、そんこつについては愚痴ば言っさん。ワルばってん。こげんなったつは誰んせいね。あんたは猿にも人間にもなりきらんめえもん」
ささやいた男は、スカートに手を伸ばす妄想から醒めて、不思議そうに雅子を見た。その雅子が食事もとらず3日間寝こんだ。
妙な噂が流れた。誰もが半信半疑だったが、和雄の表情が変わり、一言も口を利かぬ態度に噂は噂ではなくなった。雅子が寝こんで5日目の夜、オフセット印刷課で仕事の打ち上げの酒盛りが開かれたが、職員が先に帰ると、にぎわってた宴会も急に和雄が黙りこみ葬式のようになった。ドアが開き、雅子がやってきた。十数人が一斉に息を飲む音が、和雄を振り向かせた。少し頬のこけた雅子は、力なく車椅子を漕ぎ、和雄に近づいた。近づく度に涙が流れ落ち、白いブラウスの胸の部分を濡らし、乳房の輪郭が現れ始めていた。和雄の車椅子の横に並んだ。
「許しなっせ」
雅子の消え入りそうな声は、反響音のひどい部屋のせいもあり、そこにいるすべての者の耳にささやく様に聞こえた。時計の針の音だけが聞こえ続け、その数を数え始めて21が過ぎた時、和雄が雅子の手を取り、25の時、雅子は体を預ける様に和雄の右腕にしなだれた。誰かがカセットをかけ、シカゴの曲が流れ始めると一気に宴会の賑わいが戻った。酒が進み、時々誰かが酔いににまかせては
「職員の強姦を許すな」
と叫んだが、次第に宴は落ちつきを取り戻した。それから一週間後、挨拶も無しという異例の措置で職員が一名退職し、それを機に和雄はさらに無口になったが、雅子は益々明るくなり、夫婦漫才のようなやりとりで、時には周りの笑いを誘った。
Vol-14 背広
賢二の母親は、いつもうつむいていた。3ヶ月に1回、判で押したように年金受給に会わせてやってきた。くぐもるような喋りは語尾が聞き取れず、誰も賢二との会話の内容は窺い知れなかった。職員におろさせた年金の一部を確かめると両手で持ち上げ、「ほんなら」と深く頭を下げると、そそくさと帰り支度が始まり相部屋の俺に視線を合わせることなく何かをつぶやいて出て行くのだ。入所して20年。変わる事のない儀式は続けられた。
1度だけセーラー服姿の妹が母親に連れられてきた事があった。普段無口な賢二が唾を飛ばして、全身をふるわせながら妹と話すのを見て俺は驚いた。妹に車椅子を押させ、ニコニコと施設の中を移動する姿にみんなも驚いた。妹は母親と違い快活で、誰ともなく挨拶を交わし、どんよりとした世界に、若い性が発散するエネルギーが放射され、あの日賢二の車椅子の周辺は、確かにきらめいたのだ。自閉的なドラマしかない世界は、わずかな変化が待ち望まれ、そこからのっぺらぼうな時間を断ち切る物語が作られるのだ。
ある日、賢二のベットの上に背広が吊り下げられた。高そうな背広だった。
「10万は越えとるげな」
「イタリア製たい。俺達でん買いきらんばい」
職員が吐き捨てた。
「趣味のわねさわるさ?」
賢二に振られた亮子がいいふらした。
あの妹の結婚式が近づくと、年金受給日でもないのに、母親がやってきた。両手を持ち上げる事もなく、どうして帰るきっかけをつかむのか、俺はテレビの音をけしたままイヤホーンをつけて言葉を待ったのだ。
「聖子のどげんしてでけんていうけんね、こらえんねね」
賢二に顔を近づけ、声を押し殺したことによって、かえって明確に聞こえたのだ。テレビ画面はその瞬間コマーシャルが流れ、俺の気に入っているケンとメリーの歌をバックにした車のCMが流れ始めた。そのCMの間、沈黙が続いたが終わったと同時に、賢二は言った。
「よかよか」
その時、つまらない音のないバラエティ一番組を見ながら、俺には見えた。人指し指と中指に挟まった親指が折れるほどに、賢二のこぶしが握り緊められているのを。
背広は一度も着られる事もなく、結婚式の翌日に、ベットの下のダンボールに入れられた。年金受給日、母親は訪れいつもの儀式が行われた。
Vol-15 クリスマス
女神役は亮子だった。
薄く白いベールをかぶり、赤い蝋燭を揺らしながら、照明を落とした食堂のテーブルの間を擦りぬけて、ゆっくり歩く姿に、クリスマスソングのスローバラードがかぶり、21才になっていた僕は、施設のクリスマスも悪くないと思った。多分亮子が美しく見えたせいかも知れない。
女神の入場が終わると、園長の退屈な挨拶が始まった。酒が禁止されている施設の中で、唯一クリスマス会だけは酒が許された。あと2,3分もすれば飲めるのだと思うと、挨拶のつまらなさにも、耐えられた。
乾杯がすむと、100名近い人間の話し声とBGMで、死んだような施設の日常は消え、クリスマスにかこつけた非日常が、障害者達を少し遠くへ誘った。
僕は成人施設での初めてのクリスマスに、少し心が浮ついていた。29才のやり手の事務長が、行き付けの飲み屋のホステス達を招き入れたのは、もう皆の酔いが回り始めたころだった。ホステスを初めて見る僕等は舞い上がった。
僕の横にやって来た令子は、クルマイスをわざとぶつけて、ホステスとの会話に夢中になった僕を少し睨んだ。
「あらあら、気が利かずにごめんなさいね」
ホステスは笑いながら席を立ち、僕は仕方なくタバコをくわえた。
「タバコを吸うのを忘れるぐらい夢中になってたの」
令子はふくれ顔で言った。
「怒ってる?」
僕の質問を全く無視して令子の視線は亮子に向かっていた。
「お前、障害者にしては素人だよな。見て見ろよ、クルマイスの男で、どこのどいつがクルマイスの女を選んでるんだ。えー。せめて歩ける女を選ぶのが常識ってやつだろうが」
令子とつきあい始めた時、同室の永田から言われ、施設のカップルの組み合わせを思い浮かべ、見事に法則化されているのに気付き、僕は奇妙な反発と共感を同時に抱いたのだった。
「ずーっと亮子を見てたね」
僕に灰皿を差し出しながら、令子はため息を落とすと、眼をしばたかせながら令子は続けた。
「あなたもここの男になっていくのね」
嬌声で語尾が聞き取れなかったが、見透かした自信に裏打ちされた笑顔に、僕はうろたえていた。
「仲のいいことで!」
僕の肩を叩いて、永田が酒くさい息を吹きかけた。
Vol-16 キリスト
男は完黙でキリストと呼ばれた。常に笑顔を浮かべていた。ただ、病状が悪化すれば、その笑顔は空笑に変わった。
精神障害者の福祉ホームは、狭い個室が病院のように、味気ないレイアウトで並べられ、うつ病の利用者が大半を占めていたが、男は統合失調症だった。男が行方を絶った8月は、記録的な猛暑が続き、誰もが何もかにもにうんざりとしていた。
1年前、男はホーム内で少し暴れ、職員が制止しようと男の左頬を殴り、よろけた男は、口から血を流しながら、スローモーションのように右の頬を差し出したのだ。やせ細った男の顔には、不精髭が伸びており、髭の先から血は滴っていた。職員は動きを止め、充血していた顔が、目に見えて色を失っていくのが見えた。どんよりした空気の中で、その光景が僕には美しい絵のように思えた。
恐ろしい程の地熱に支配された農道に、男の横顔はただれた様になり、干からびた右手は、まるで蜘蛛の糸をつかむように、自転車のハンドルを離さずにつかんでいた。
水分も取らず、食事も取らず、帽子もかぶらず、老いた母親の住む実家にも立ち寄らず、どこで手にいれたか中古の自転車を押しながら、ひたすら歩き続ける姿が目撃されており、髭は信じられないくらい伸びていたのだと
職員は言った。「誰彼もなく、道を尋ね回ってたらしいぞ」職員は饒舌だった。
僕は、薬の副作用で喋るのがしんどくなっていて、職員の話に相槌も打てず、気温が39℃を越えたら死のうと新しいアイデアを思いつくと気が楽になり、間の抜けた相槌を打った。
「道を尋ねたんじゃなくて、未知を尋ねたんじゃないの」
僕が言うと、職員は不機嫌そうに尋ね返した。
「みちって、どんな漢字のみちなんだよ」
僕はここで笑わなきゃと思ったが、顔の筋肉に脳の指令など届かない。体の中を巡るのは、薬で淀んだ血液とウーロン茶ぐらいなのだ。
「何が悲しくてよ、盆の14日にお通夜かなー」
背伸びをしながら若い職員は会話の終了を表現する。
僕はホールのマンガチックな温度計を見に行った。36℃だった。隣のカレンダーを見ると、8月13日の金曜日の数字の下に鉛筆で、薄くて読み取れない字が書いてあった。
Vol-17 セブンブリッジ
懐中電灯の光が雄介の顔をなでて、一巡すると、当直の老人は人差し指で懐中電灯をいつものように一回転させると、6号室に向かった。遠ざかる足音から完全に音が消える前に雄介が起き上がろうとすると、あいつが言ったのだ。
「もうちょっと待った方がいい」
学生ボランティアのあいつは3日間俺たちの5号室に寝泊りした。俺たちの目に大学生はずいぶん大人に見えた。あいつはいろんな話をし、養護学校しか知らない俺たちのスターになっていた。俺たちはあいつの話に夢中になった。あいつの細い指先でカードが鮮やかにあやつられ、消灯後の5号室は、
「おー!」
という歓声に包まれた。
俺たちはセブンブリッジを習った。点数をつけ、みんなで深夜までのめりこんだ。面白くてしょうがなかった。見回りが終わると、蛍光灯にタオルをかぶせ、カードが配られた。
3日目のセブンブリッジは、最後になるので、夜の12時過ぎまで続き俺は初めて優勝した。あいつは俺に握手を求め、その手を高々と挙げて称えてくれた。
ゲームは終了し、みんな眠りについたが俺はうれしくて眠れずに少し焦っていた。早く寝ないと、朝起きれずにまたサボリで休みたくなるのだ。休むのは良かったが、仮病を使うたびに、中学生からいじめられるのにはうんざりしていた。
なんかうとうととし始めた時、異変に気がついた。あいつの手が俺の体に触れていたのは知っていたが、その手がだんだんと動き始めたのだ。その動きに意志を感じた瞬間、俺の体は硬直した。早く寝ようと思ったが、手の動きは早くなり、俺の右手をつかむと、将棋の駒で遊ぶ山崩しのような慎重さで、俺の右手は拉致された。
「もうちょっと待った方がいいでしょうな」
ハローワークの障害者担当員は、禿げ上がりつつある額を鉛筆でかきながら、熱のない言葉を続けカードを魔法のように操り、俺の右手を拉致したあいつの手は、30年を経て、平凡なくたびれた手になっていた。
「特技はなにかあるのかな」
あくびをかみ殺してあいつが聞いた。
「セブンブリッジ」
俺は言葉を投げ出した。あいつは上目遣いに俺を見た。
「はい、真面目にいきましょう!」
二度目のあくびをかみ殺してあいつが言った。
Vol-18 オルガン
消燈後の食堂が、懐中電灯の弱々しい灯りでほの暗く映し出されると、もう何年も見続けた場所なのに、異空間に迷い込んだ感触が背中の上部に張りついた。良一が歩行器を勢い良く放り出すと、主人をなくした歩行器はまっすぐに窓辺を目指したが、ぶつかる寸前で計ったように止まった。良一は右足一本でとんとんと飛び、オルガンの椅子につかまり坐って少し笑った。
俺は車椅子のブレーキを掛けずり落ちる様に下に降りた。ペダルに手を掛けると良一が言った。「よかね真ちゃん。ようと聞いてね」かなり言語障害がきついのに、俺には良一の言葉はすべて分かった。子どものころから15年もいりゃ当然だが、今日は、初めてうれしさの微妙なニュアンスさえその声から聞き取れた。
コントロールの利かない左手が不随運動で空をさまよう中、良一は自己の緊張を最大限の精神統一で押さえにかかり、顔を小刻みに揺らしながら、その右手を鍵盤に伸ばし始めた。俺はあわてて両手でペダルを押し始めた。
手の力が弱い俺にそれは苦痛で、すぐ腕が疲れ始め、けちらずにピアニカを買えばよかったと、後悔し始めた瞬間。Aマイナーのイントロが流れ始めた。2小節聞いたときにこれは最後まで聞かねばならないと思い定めた。一番が終わったころ良一の鼻息も荒くなり、緊張のため椅子から落ちるのではないかと思ったが、強い精神力は体型を維持し続けた。俺の両腕も二番が終わるころには完全にいかれ、重ねた手のひらに頭をのせ、頭の重さを利用してペダルを踏み続けた曲が終わった。二人して息を整えるのに一分かかった。
「どげん」
良一が言った。久しぶりに良一から電話がかかった。
「あれからもう32年たい。早かね」
良一の声は今でも全部聞き取れた。
「あの歌が鹿児島の小学校で放課後流されるとげなよ」
何故そうなるのか俺は少し驚いたが、それよりあれから32年すぎていたことにもっと驚いた。理由を説明する良一の声を聞きながら、あの日の腕のきつさを思い出していた。
あの日、オルガンを弾き終わったあと、良一は鍵盤の上にメモを置き蓋を閉め、俺を見て笑い
「小便しかぶろごたる」
と歩行器を蹴って食堂を出て行った。明日の朝、赤い車椅子に乗ったあの女が誰よりも早く食堂に入り、この蓋を開け、メモを読み、そして多分舌打ちでもするのだ。重度で、特に言語障害のある者を腹の中で見下しつつ、みょうにやさしく接する美土里が俺は苦手で良一は惚れた。その夜俺は眠れず、繰り返し流れるオルガンのメロディーにいつしか言葉をのせ、頭の中で歌い始めていた。朝起きると良一に言った。
「できたばい、詞」
良一が笑った。電話の良一の声の後にかすかにオルガンの音がした。幻聴かな、少し俺は緊張しながら細い息を吐いた。
Vol-19 クリスマスパーティー
女神役は亮子だった。薄く白いベールをかぶり赤い蝋燭を揺らしながら、証明を落とした食堂のテーブルの間を擦りぬけて、ゆっくりと歩く姿にクリスマスソングのスローバラードがかぶり、21歳になっていた僕は、施設のクリスマスモ悪くないと思った。多分亮子が美しく見えたせいかもしれない。
女神の入場が終わると園長の退屈な挨拶が始まった。酒が禁止されている中で、クリスマス会だけは酒が許された。あと2、3分もすれば飲めるのだと思うと挨拶のつまらなさも耐えられた。乾杯が済むと70名近い人間の話し声とBGMで、死んだような施設の日常は消え、クリスマスにかこつけた非日常が、障害者を少し遠くへ誘った。
僕は成人施設で始めてのクリスマスに、少し心が浮ついていた。29歳のやり手の事務長が、行きつけの飲み屋のホステスを招きいれたのは、もうみんな酔いが回り始めたころだ。
ホステスをはじめて見る僕等は舞い上がった。僕の横にやってきた令子は、車椅子をわざとぶつけてホステスとの会話に夢中になってた僕を少しにらんだ。
「あらあら、気が利かずにごめんなさいね」ホステスは、笑いながら席を立ち僕は煙草をくわえた。
「煙草を吸うのを忘れるくらい夢中になってたの」令子はふくれ顔で言った。
「怒ってる?」僕の質問を全く無視して、令子の視線は亮子に向かっていた。
「お前素人だよな。見て見ろよ車椅子の男で、どこのどいつが車椅子の女を選んでるんだよ。エー。せめて歩ける女を選ぶのが常識ってやつだ」令子と付き合い始めた時、同室の永田から言われ、施設のカップルを思い浮かべて見て、見事に法則化されているのに気付き、僕は奇妙な反発と共感を同時に抱いたのだ。
「ずっと、亮子を見てたね」僕に灰皿を差し出した令子は、ため息を落とすと、目をしばたかせながら続ける。
「あなたもここの男になっていくのね」矯声で語尾が聞き取れなかったが、見透かした自信に裏打ちされた笑顔に、僕はうろたえていた。
「仲のいい事で!」僕の肩を叩いて、永田が酒臭い息を吹きかけた。
Vol-20 歌姫
真理江は取り柄のない女だった。寝たきりだったが、性格は優しくもなく冷たくもなく、感情の起伏も少なく、異性にもてることもないので、同室の女性障害者からは嫌われることは事はなかったが、さりとて好かれる事もなかった。
面会者もなく、40の坂を越えた真理江に職員の扱いはぞんざいだったが、真理江は気にするふうもない。
「あんたも何かしたら」車椅子の上から芳子が投げやりに言った。真理江は少し笑ったが、すぐ無表情に戻った。職員に気兼ねするのか、真理江は園内の創作活動には一切参加しなかった。
芳子は不活発な真理絵が疎ましかったが、何に対しても疎まない生き方に感心していた。障害者施設で疎まない障害者に出会うなど芳子にとっては初めての経験だった。
久しぶりにまじまじと真理江の顔を見た。少々老けたように見えた。見飽きて窓に目を移すとかすかに違和感を感じた。ゆっくりと目を移すと全身を眺めなおした。よく見ると、かすかに右手の人差し指が規則正しく動いていた。それに合わせるように時々瞬きが入っている。しばらく眺めていた。音楽だ。4拍子のリズムがゆっくり刻まれ、後打ちで2拍目瞬きが入っていた。真理江はALSでほとんど声が聞き取れず、唇もほとんど動かずに、耳を寄せないと聞こえなかった。芳子は神経を集中した。もどかしく息を止めた。少しなにかが聞こえ始めた。
芳子はその積極的な性格と、電動車椅子での移動ができたので、他の障害者への影響力があった。その芳子が動き回り、園内の障害者に指示が出され障害者たちは、いぶかりながらも芳子に言われた日を待った。
その日は、一日中雨が降り続けたが、消灯後嘘のように雨は止み静まりかえった。ほとんどの障害者が、FM放送の158:07に合わせイヤホーンをつけてその時刻を待った。
ジージーという無機質な音に我慢の限界を迎えた頃時刻はやってきた。かすかに音が聞こえ始めた。何の音かわからずボリュームが上げられた。
そのスキットは透明で、悲しみの高音と喜びを求める切ない低音が入れ替わりながら、希望の美しさを称えるようにアメージングストーリーを歌い上げた。芳子が見ると、ヘッドホーンマイクをつけたまま無表情な真理絵が目を閉じていた。
歌が終わると、再び雨が落ちた。
Vol-21 森の石松
脳性麻痺で言語障害をもって、森家の長男として生まれ落ちた時から、そのあだ名がつけられる宿命だったのだ。
左右に体を揺らしながら、森の石松は必死に同級生を追ったが、追いつけるはずもなく、飛んでくる石を避けようにも体は言う事を聞かずに、地面につんのめるように倒れた。
逃げていた同級生がこわごわ近づいてきたその時、にわかにその足を引っ張り倒すやいなや、すくっと立ちあがり睨みをきかすと、みんな悲鳴を挙げて逃げ出した。
酒臭いよだれをたらしながら、森芳郎は入所して3日目の吉岡に酒をたかりながら、おなじみの物語を語っていく。吉岡は誰もが最初はそうであるように、ホラ話に飽きて、BGМのように聞き流すようになるのだ。それまでの間に、シャバでの森の石松の数々の武勇伝をいくつ聞かされるのだろう。
石松の話は、ばかばかしい工賃で働かされる単純作業に飽きた時間を、時々忘れさせるほど面白い時があった。年に何回か披露される新作の武勇伝を、心待ちにする連中もいた。
石松の話は単純だった。最後は石松が健全者を懲らしめるという筋書きは共通していたが話かたがうまく、ついつい聞きほれていくのだ。
しかし、石松の話にいらつく者もいた。石松の嘘を暴き、責めたてた。石松は顔色も変えず、ただ、黙り込んだ。顔色が変わったのは、そいつが薄ら笑いを浮かべた瞬間だった。訳の判らない叫び声を挙げて、オフセットの原版を地面に叩きつけたのだ。凍りついた部屋に職員が駆けつけ、そいつが石松を指差すと、職員はガムをクチャクチャと言わせながら、石松の左頬へマジな平手打ちを放った。
響き渡る、ややかん高いその音を消すために、石松は話し続けるのではないか、と思った時、石松の体は崩れ落ちた。
「いつもの話しと違うじゃん、森の石松さんよ」
職員のセリフに誰もが作業を開始した。
翌日、石松は、左頬と目がはれており、眼帯をした石松はそのことをおどけてみせた。
午後には気まずさも消え、石松は話し始めた。
シャバの高校生時代の恋愛の三角関係というシチュエーションは新鮮で、薄ら笑いを浮かべたそいつも、やや遠くで、聞き耳を立てていた。
話しは佳境に入り、石松は恋仇との対決になると急にゴクンと息をのみ、言った。
「続きは酒おごってくれたら話すよ」
Vol-22 コロコロベースボール
下敷きの上で鉛筆をチップのように切った六角形が転がり、ゆっくりと止まった。その上部にHの字が読み取れた瞬間、司はよだれを振りまき首を振って喜んだ。8回裏での逆転3ホームランはもう勝負を決定付けた。
中学部に入って負けが続く義也は、舌打ちをすると同時に司を見やるとはき捨てるように言った。
「早よ終わらそい、もうすぐ消灯ばい」2年前から、誰が始めたのか養護学校の寮では、鉛筆のチップによる野球が流行り始めた。素朴なゲームは進化し、いくつものチップを駆使した複雑さがゲームを面白いものに仕立て上げ、参加者全員ノートに記録をつけ、もう一つのプロ野球公式戦に皆は燃えた。
ゲームが終了し5連敗した義也は不機嫌にチップを筆箱になおしながら、近づいてくる職員の足音に又舌打ちをした。
義也たちの野球を口うるさくやめさせようとするその職員は、何が気に入らないのか、常にぶっちょう面で、笑わん殿下と呼ばれていたが、野球に関しては軽蔑し尽くしたようなまなざしを向けた。
チップをなおし終わった時、その職員が入ってきた。なおし終わっていない司があわててチップをつかもうとして、つかみそこなっていた。また皮肉が飛んでくるか、別の件を持ち出して説教を始める予感に、義也はつい舌打ちをしそうになったが、慌ててこらえた。
予想は裏切られ、職員は司にどったちが勝ったかを聞き、司の勝利を称え、お約束のように懐中電灯を西部劇の拳銃のようにクルクル回転させ去っていった。
その口調のおだやかさに、部屋のもの全員が義也の顔を見る。
「明日はダブルスコアで俺が勝つけんね」
的外れな義也のセリフに司が声もなく笑った。
義也が軽く腹をたてていた時、消灯のベルが鳴り今日最後の舌打ちが響いた。
急だった。有無をいわさぬいきなりの禁止令だった。
あの職員が職員会議にかけたのだという噂が流れた。あんなものに何時間もかけてじっとしていたら、リハビリしてもなんにもならないと、カマキリの異名を持つ女の職員が賛成したという。
「あの二人はできとる」
司が言った。3日後あの職員が見まわりに来た。機嫌が良かった。しかしあの得意技は見れなかった。懐中電灯が見つからなかったのだ。職員は無言で義也を見た。義也は舌打ちをした。
Vol-23 白いソックス
その少女はつま先で歩く度体が少し左右に揺れた。顔は笑みが絶えず、軽いCPのようにも思えたが、言語障害もなく股関節の障害による軽度の歩行困難のある少女の存在は重度の施設では際立った。
入所型の授産施設に舞い降りた18才の少女は施設において見られない風景を作り出した。
夜の自由時間に応接室で教科書とノートを並べ、笑顔で鉛筆を走らせる姿や、日曜日になると神父が訪れ少女と二人祈る姿は、管理抑圧の刹那的で光る石をなくした男達をして畏敬の念を抱かせた。アイディンティティゲームを仕掛けると思われた女たちも、そのたたずまいの異質さに口を閉じた。
その少女の笑みを絶やさぬ態度と醸し出される近寄りがたい雰囲気は、新人殺しといわれる椿をしても手がこまねさせた。
施設の女たちの情の深さと、あっけらかんとした自負感に何度か吸い込まれそうになりながらも、この場所での恋愛にうんざりして手を出す事のなかった靖男は、その少女を見た瞬間頭の奥ですーっと何かが流れた気がした。
夜、応接室で勉強する少女のまなざしを渡り廊下の隅から煙草をふかし眺める靖男は、聞こえるはずのないノートを走る鉛筆の音を聞いた。
何人かの男達が、少女に言い寄り優しく遠ざけられたが、いつものような恨み言と、八つ当たりの抽象は起こらず、男達はまるで振られた事を誇らしげに感じているように見えた。
やけに暑い夏になっていた。靖男は少女の白いソックスが気になっていた。少女を象徴する白いソックスだったが、ひざ近くまであるのは暑さの中で不自然だった。
少女が来て半年が経っていた。あと半年で少女は去るのだと噂がたった。
「靖男よ、俺の彼女に聞いたけど、あのソックスの下にはものすごい手術の傷があるらしいよ。気にしてんだろうね、けどよあんだけ可愛いけりゃな・・・・・」
半年後、噂どうりに少女は施設を出た。
その施設に場違いな少女の退場に、誰もがあまり関心を持たなかった。施設はいつものようにいつもの場所に戻ったのだ。
靖男は一月後少女に手紙を書いた。返事は来ぬものと決めていたが、雨の朝ぶっきらぼうな職員が少女からの手紙を差し出した。靖男は胸をドキドキさせながらぶっきらぼうに受け取った。鉛筆の走る音が聞こえた。