
臼井 無量 作
今日は出勤日だが、どうしても済ましておかなければならない用事で、3日前に欠勤届は提出して置いた。
昨年、暮れも押し迫ったクリスマスの25日、木村はクルマで人身事故を起こしてしまった。 その後始末が残っていた。
病院にもクスリを貰いに行かなければならなかったし、夏子との約束もあった。
事故は、彼の不注意によるものだった。直進してきたオートバイに気づかずに右折したためのもので、乗っていた青年は、左大腿部骨折の重傷を負った。
事故後の対応の拙さで、今日まで尾を引いたが、やっと示談に遭ぎつけた。
家を出ると、示談金の準備のため中央郵便局へ行った。途中の人通りは多くなかったが、局はかなり混んでいた。
田畑を売った金を示談金に当てるのは後ろめたかったが仕方がなかった。
引き出す金額を用紙に書き入れて窓口へ出し、待ち合いで待った。
木村は、長椅子の空席を見つけて座った。隣のテーブルで6人の中年女が雑談していた。 彼は、彼女たちの話を、聞くともなしに聞いていた。
細身の縁なし眼鏡を掛けた、四十がらみの女が話の中心だった。
裕福な暮らし振りを想わせるその女の息子が、今春、東京の医大に入学し、夏休みを利用して帰省しているという話らしい。
親元を離れて東京で一人暮らしをする子供の毎日の食事や洗濯、掃除等が気懸りと、母親らしい細やかな気遣いが窺えたが、木村にはどこか自慢話の様に思われた。
年金係りの窓口で、老婆が、若い女子職員に何かを頻りに尋ねていた。
その老婆は、職員の親切な説明にも拘わらず、内容を理解出来ない様子だった。
彼は、ショート・ホープを一本喫い終えた時、呼ばれた。
ズシリとした感触の札束を、手提げカバンに入れると、郵便局を出た。
昨夜、示談書を交わすことを電話で伝えて置いたが、相手は外出して留守だった。
代わりに母親が応対に出た。示談書を取り交わして辞した。
外に出て気が付くと、空に浮かぶ雲は、スッカリ高い所にあった。
彼は、長く負ってきた肩の荷が降りた思いがして、思わず深いため息をついた。
今日は、夏子と青蓮院へ行く前に、病院へ行かなければならなかった。
クスリは、まだ少し残っていたが、隣り町にある病院へ行くには会社を休むか、今日のように、前もって連絡しておかなければならない。
独り身の彼は、偶にウイークデーに休みを取り、納税や不動産屋との交渉など、祝祭日では片付かない雑用を処理しなければならなかった。
病院へ行く途中、横臥した牛の背を想わせる山の麓を通る。アップダウンの多い、この麓の丘陵地からは、鈍色に沈む有明海を遠望できる。爆発を繰り返す雲普賢岳方面には、澱んだ噴煙が南へ尾を引いて、雲の様に浮かんでいた。
国道に出ると、病院への下り車線は渋滞していた。高速自動車道のインターチェンジが近くにあるため、この時間帯はこれまでもしばしば混むということはあった。
木村の車は○○活魚センターと大書きしたトラックの後ろを、ノロノロと走った。
病院への目印である寿司店まで来るのに20分もかかった。
寿司店前の信号を左折して1分も経たぬ内に、クルマは、広々とした梨園の中に入った。 いつも手入れの行き届いた見事な梨園であったが、今年は先日の台風の所為で梨の畑は無残な姿を晒していた。
この広大な梨畑は、開花期を迎えると、見渡すかぎり白い花を一斉につけ、さながら桃源郷を彷彿とさせるが、今度の台風が一夜にして白い花弁を黒い土の上に叩き落としてしまった。白亜の病院は、この梨園を過ぎた所にあった。
病院の玄関に入ると待ち合いのソファーに外来のS子が、ひとり座っていた。
彼女と会うのは今日で4度目だった。S子は木村と目が合うと、ユックリと俯いてしまった。彼には理解できる感情だった。二十半ばのS子は結婚していて、女の子が一人いると言っていた。
「―わたし、柳葉魚なの・・・」
初対面の時、子持ちという意味をこんな表現を使った。
S子の才気の一片を知っている木村は、彼女に何か話しかけたいと思ったが、S子の沈黙がそれを拒んだ。
結局、S子はクスリを受け取ると、黙って帰って行った。
受付には、相変わらず胡散臭い表情で女事務員が座っていた。
診察を申し込んで、暫く待たされた後、診察室に呼ばれた。
「どうですか?」
茶色のビニール張りの肘掛け椅子に腰をおろしていた院長は、薄くなった頭頂部に無意識に手をやった。彼の前歯の数本は莨のヤニで黄色に変色しており、ニヤリと意味ありげに口許を緩める度に姿を見せた。
「何とかやってます」
木村は曖昧に答えた。
「仕事は、うまく行ってますか?」
診察の都度受ける質問だった。
余り楽ではないが、休まずに行っていると答える。
「あのー」木村は、カルテに絶えずペンを走らせる院長に遠慮勝ちに言った。
「わたしの病名は・・・・」
「精神分裂病です」
木村の言葉が終わらぬ内に院長の返事が返ってきた。
「そうですか」木村は、舌先に少し力を入れて、乾いた上下の唇を徐になめた。
「精神分裂病という病気は、どんなものでしょうか?」
「どんなものと言うと?」
「症状とか、原因とか、そんなものですが・・・・」
院長は、カルテの上に挟んでおいた木村の紹介状に目を通して
「貴方の場合、原因は今のところハッキリしないと言った方が良いかも知れませんね。只、わたしの臨床経験から言いますと、ひとつ参考になるかと思いますが・・・」
「わたしに当て嵌まることでしょうか?」
「そうですね、どうでしょうか」
院長は、木村の真剣な表情を見て、少し皮肉を込めてニヤリと笑った。
「この病気の患者さんの傾向として、普通一般の人に較べて自分の考えに固執すると言うか、偏っていると言ったら良いのでしょうか、とにかく、自分の核となる確固たる物に、極端に・・・」
木村は院長が自分の事を言っているのだと直感した。
木村には、三つ違いの妹がいる。その妹は幼い頃、頭部が異常に大きかった。脳水腫だった。戦後間もない頃とて、充分な治療手当を受けることが出来なかった。
その事が、後年、発作を伴う癲癇の病という形で現れることになった。
当時、高校生だった木村にとって、妹の突然の発病は大きな衝撃だった。
事態を冷静に見つめ、対処するには、余りにも若過ぎた。
以来、緩慢ではあるが、確実に、木村の家はおかしくなっていった。村人達の、木村の家人を見る目が気に縣り始めた。何かに押し潰されそうな、そんな鬱屈した日が次第に多くなっていった。
その状態は、大学を卒業し、鉄の都北九州の鉄工所で働く様になっても間断なく続いた。 精神分裂病の診断が下りて、病院に入院したのは、就職してから三カ月目の夏を迎えたばかりの蒸し暑い日だった。
戦死した父の死後、木村の母子四人を養育してくれた義祖母の急死を知ったのは、入院して間もなくだった。
祖母は、永年胃潰瘍を患っていたが、死因は心筋梗塞だった。
奇しくも木村の誕生日に母の訃報を知らされた時も鉄格子の中だった。
3年前、20年に及ぶ闘病生活に終止符を打って退院出来たことは、木村自身、不思議に思っている。
木村が入院した病院は祖母の故郷・鹿児島にあった。兄の配慮だった。
病室の、鉄格子の嵌まった窓から桜島を望ことが出来た。群青な豊饒の海に、峨峨として屹立し、静かに噴煙を上げる桜島の姿は、彼に言い知れぬ感動を与えた。
深夜、暗黒の空に地鳴りを響かせ、火口から赤熱した噴石を山肌に散らす桜島の激しさも見ることが出来た。
病院は、郊外の高台にあった。病院に隣接して、累々たる死者を葬っている大きな墓地があった。木村は、この奇妙な取り合わせの場所で、20年の歳月を送った。
入院以来、一度として病院から出ることはなかったが、木村には唯一の楽しみがあった。 それは、職業軍人だった祖父が、戦場で使用していた双眼鏡で、病室から墓地を覗くことだった。
日がな一日、双眼鏡を離さず墓地を覗いて暮らす木村は、看護人達には勿論、同じ病の患者達からも変人呼ばわりされた。
墓地への日との出入りが毎日絶え間なく頻繁にあることに、初めて気が付いた。
t 新しい塚穴が掘られない日はなかった。
双眼鏡で遺族の悲しみを盗み見する楽しみは、格別だった。
青、黄、赤、白などの色彩りの洋服を着た子供達は、新しい墓標の回りで遊び戯れ、同じ墓前で、黒い喪服に身を包んだ大人達は悲しみに眩れる。
あれは、昭和という年が終わる前の年の8月21日だった。
その日は珍しく、遺族は一組しか墓地に来なかった。墓地のそこここには既に曼珠沙華が咲いていた。その赤い毒の花は、そよと吹く初秋の風に微かに揺れていた。
1年前の冬の終わり、南国には珍しく大雪が降った。雪の降りしきる日、9人の作業員達は5日間、造成作業をした。彼らは、面白いほどに建設機械を自在に操って新しい墓地を造り上げた。
木村はその一部始終を双眼鏡で覗いた。最後の日は、春を迎える前の穏やかな日だった。 作業は病棟の消灯時間が過ぎても続いた。木村の耳には、作業が終わってからも機械のエンジンの轟音が残り、床に就いてもなかなか寝付けなかった。
彼が寝息を立てるのを当直看護人が確認したのは、暁闇が僅かに白む頃だった。
墓地は日当たりの良い、t
ブロックや、ザラついた小岱石の様な肌ざわりの石を築き、シラス土の流出を防ぐ様に囲われた墓所の集まりは、さながら堅固な城塞を想わせた。その中央の一番高い所に、新しい墓所は造成された。
夏の名残の太陽が照る仮り墓標の前で僧侶の読経が始まると、涙することのない遺族たちがそれぞれ神妙な表情を作って掌を合わせた。
読経が終わると遺族に一礼して僧侶が帰っていった。遺族の中の、頭髪の大半が白い、縮れ毛の老女が、いつまでも、帰って行く僧侶の後ろ姿を見送った。老女は鼻筋に汗をかくのか、目尻のシワが目立つ色白の顔を頻りにハンカチで拭いていた。
中学か高校の教師と思われる男は、酔いが回っているのか、赤ら顔に汗を浮かべて、足をふらつかせていた。体裁が悪いらしく、鼻の低い、平べったい顔の中年女房らしい女は、時折亭主の尻を抓っていた。それを見て取った痩せすぎの別の一組夫婦が冷ややかに笑った。
遺族の中に木村と同じ年頃の男がいた。当然連れがいてもいい年齢であったが、最後部にひとりポツンと立っていた。
木村はその男の顔を丁寧に観察した。彼も精神に異常があるのではと思った程、その男は険しい顔付きしていた。
その男の前に中年男がいた。一見温和な容貌だった。しかし、歳の割には頭髪が極端に薄く、そのことが、他人にどこか陰湿な感じを与えた。
木村は、双眼鏡から目を離した。遺族達を観察するのは面白いことではあったが、気疲れする遊びだった。
娯楽室で莨を吸うためにベットを離れた。木村のいる閉鎖病棟の患者は開放病棟の者の様に自由に運動場に出ることは出来なかった。患者は、毎食前、必ずクスリを服用しなければならなかった。
クスリを飲むと眠気を催し、何もする事もなく眠りほうけることで一日を終わる者が多かった。娯楽室には、新聞とテレビがあるだけだったが、患者達は別に不満をあらわにすることもなく毎日を過ごしていた。
木村は他の患者の迷惑にならない場所に腰をおろし、空き缶で作られた灰皿を近くに引き寄せて莨に火を着けた。テレビは歌番組を遣っていた。韓国人歌手が『暗夜航路』を唱っている。患者達は、歌謡曲番組をよく見る。木村も好きだった。
閉鎖病棟には、百人余りの患者が隔離されていた。彼らは、盆と正月の二回、家族・縁者が迎えに来ると、一泊二日の外泊ができるが、その願望が叶えられる者は、三割程度しかいなかった。
「木村さん、済まんどん‥‥」
同室のHが右手を莨の方へ遠慮勝ちに伸ばして吸いかけをせがんだ。
木村は、Hに莨を渡して病室に戻った。双眼鏡を手にして再び墓地を眺めた。
先程の場所には、老女と、黒のワンピースを着て同じ色のベールを被った三十半ばの女が残っていた。
若い方の女は、陰湿に見えた男に連れ添っていた。可成り性格の強そうな、小肥りの女だった。
老女は、腰を屈め、墓標に新たな線香を加え、またハンカチで鼻筋を拭いていた。
若い女が老女をいたわる様に、何かと手助けをした。恐らく嫁姑の仲でもあるのだろうと木村は思った。
若い女の胸元の辺りが時折、夏の光をキラッと照り返す。木村は、光を反射する辺りを念入りに観察した。女はプチ・ネックレス状の首輪を下げていた。輪の垂れ下がった先端にクルスが付いていた。しかし、十字架には、ゴルゴダの土壇場で刑死した救世主の姿はなかった。やがて老女は、長時間仮墓標に手を合わせ何か口ごもっていたが、気が済んだという表情で徐に立ち上がり、連れの女と二事三事話すと、墓地入り口の車で待っている男達の方へ、確りとした足取りで歩いて行った。
木村は、双眼鏡を床頭台の上に置いて窓際に歩み寄り、左右の手で錆びた鉄格子を強く握りしめ、獄舎の囚人が、母恋しさに落涙する時の表情をして、異様な声を出した。
木村が退院出来ない理由は簡単に説明出来た。
身元引受人になっている兄が、彼の退院に、頑として同意しないからだった。
彼に福音をもたらしたのは、先月、アルコール依存症で入院した元公務員のHだった。 Hの入院後、三日目から、木村はHと碁を打ち始めた。アマ三段の棋力を持つ木村に、Hは全く歯が立たなかったが、その事が二人の間に親近感が生まれた。
Hは、木村をそれとなく観察していたが、二十年間入院生活を送らなければならない木村の理由が分からなかった。
退院の障害となっている理由を知らされたHは県の予防課に手紙を出してみてはどうかと話してくれた。
封筒を、ナースステーションの看護士に差し出すと、年老いた看護士は宛て先を一瞥し、何故か不機嫌な顔をして、ポイと机の上に投げた。
木村の退院は簡単に決まった。昭和という年号が終わる年の3月31日だった。
彼は歓びのあまり、退院の日が近づくにつれて夜が深くなってもなかなか眠りに就けなかった。
3月31日はすぐにやって来た。
退院の当日、いつもの様に双眼鏡で墓地にやってくる人間達を観察していた木村は、院長に呼ばれた。
閉鎖病棟の廊下はモルタル仕上げの長い物だった。病棟の重い鉄の扉を出て、淡いグリーンのリノリュームを張った上にモスグリーンの絨毯を敷き詰めた管理棟の中を看護婦の後について歩いた。管理棟の廊下は、生暖かい程空調が効いていた。
準備は出来たかね、木村の顔を見ると、院長は硬い表情で言った。
患者達から「入道」と恐れられている院長は、骨太の、堂々たる押し出しの体躯を白衣に包み、黒縁の眼鏡の奥に、人を刺す様な、炯炯とした眼光を潜めていた。
「これは、今後、君が通院する病院の先生ヘ渡す紹介状だ。君のことを詳しく書いて置いたから紛失しないように」
一通の封筒を手渡すと、決して兄さんを怨んだりしてはいけないと、付け加えた。
病室では四、五人の患者が、羨望の感情を込めて木村を待っていた。
彼は、無表情を装って、彼等に3本ずつ莨を配った。
「木村さぁー、良かったなあ。もう病院へ戻って来たらやっせんぞ」
患者達は、口々にはなむけの言葉を残して部屋を出て行った。
木村は、彼と同じ分裂病と診断され、18年間入院生活を送っているMの部屋へ行った。 部屋にはHも来ていた。
Mは莨を唯一の楽しみにしていた。木村は、MとHにショートホープを5本ずつ渡した。 Mは、一日5本のロングピースを看護婦詰め所から貰っていたが、絶対量が足りなかった。不足分は他の患者の物で補っていた。
Mは、他の患者の喫い分を横取りする現場を幾度となく看護人に見とがめられ、職員達から注意人物とレッテルを貼られていた。木村も重要注意人物として目を付けられていた。 彼は、20年の間に、13回離院を企てた。しかし、結果はいずれも、保護室と呼ばれる、臭い独房で1週間を過ごさねばならなかった。
狭い部屋にひしめきあっている患者達をまるで、忠実な牧羊犬の様に、一挙手一投足に監視の目を光らせる看護人に対して、木村とMは互いに目引き袖引きの間柄になっていった。彼は、鉄格子の嵌まった窓に取りすがっている二人と並んだ。
「新しか墓が建っちょっど」
Mは、墓地の高みを顎でしゃくった。木村は、Mの視線を辿った。視線の先に真新しい小さな墓が建っていた。去年の夏、老女達が集まっていた場所だった。仮墓標が、新しい墓石に変えられていた。木村はそのことに気が付かなかった。
元気でな、という二人と別れて、病室に戻った。
病床の上には、退院の準備で出来た4個の段ボール箱がのっている。
木村はすでに箱の中に仕舞い込んだ双眼鏡を取り出し、高みの墓石に焦点を合わせた。 最初、双眼鏡の中で朧ろだった墓石は、20年の間に培われた彼の親指と人差し指の巧みな操作でフォーカスされるにつれ、次第に鮮明な像を結んだ。
墓石は、頭部に丸みを持った石塔だった。石には、太い筆遣いで「倶會一処(クエイッショ)」と刻まれていた。「グカイイッショ」彼は、双眼鏡を覗きながら小声で音読した。
その日、木村の兄が迎えに来た。日輪は、既に天頂を過ぎていた。
彼が段ボールをクルマに積み込んでいる間、兄は、病院にお礼の挨拶をすると言って、再び玄関を入って行った。
木村は新しい石塔に掌を合わせずに、このままこの地を離れてしまうことは、何か忘れ物を残す様な気持ちにおそわれた。
再び玄関から入って来た木村を見て、受付の事務員は訝った。15分程して戻って来ると言い置くと、木村は事務員の何か言いたそうな表情を無視して玄関を出た。病院の正門を出て墓地の中へ入っていった。
20年間の運動不足とキッチリとカロリー計算された三度の食事の摂取でスッカリ肥満になっていた。
腹部が異常に突き出た坊主頭の中年男が、場違いの墓地の中をうろつく姿は、三々五々墓詣りに来ている者達に、奇異な感じを抱かせた。
目的の墓には、色とりどりの春の花が供えてあり、線香の燃え滓が白い筋を残していた。 木村は「倶會一処」の文字を、そっと人差し指でなぞった。海から吹いてくる春の風は随分と和らいでいて、冷たい石の感触が妙に心地良かった。
木村は、墓の裏に回った。そこには、俗名鹿毛スエ 享年七十三歳と、キチンとした楷書の文字が刻まれてあった。
木村は、院長がカルテに目を遣る度に、壁に掛けてある大きな油絵に注目した。
百号の画布には、青い布、赤い布、そして黄色い布を頭に被った三人の女が、麦の落穂を拾っている、農村の収穫の有様が描かれていた。遠景には、収穫の証しとして麦束の山が六つ描いてあり、画の右隅には、白馬に跨がった黒装束の僧が、右手を水平に上げていた。そして、三人の女の周りには、沢山の野鳥が落穂をついばんでいる絵だった。
「これは、院長先生の趣味ですか?」
木村はペンを執っている院長に尋ねた。
「そう。何か?」
「立派な趣味をお持ちですね」
彼は、言った。そうかいと言うと、院長は少し笑った。
白亜の病院を出た時には、正午を20分過ぎていた。予定より少し遅れていた。
夏子との待ち合わせの時間は過ぎているが、彼女は、皆覚寺の前で待っているはずだった。諏訪川の堤防には、銀色の芒の穂が秋の陽に光っていた。橋を渡り、昔、炭鉱電車がひっきりなしに通っていた鉄橋の下を潜って、三差路を右折する。軽自動車がやっと通れる程の細い道を少し進むと、夏子は山門の前で待っていた。
「遅れてしまって‥‥」
詫びながら助手席のロックを解いた。
「遅いので心配してたんですよ。でも来て戴いて本当に安心しました。今日は知恵ちゃ んもご一緒することになったんですよ。Mデパート前のバスセンターで待っているこ とになっているんです。すみませんけど、バスセンターまでよろしいでしょうか?」 シートベルトを締めながら、夏子は言った。
夏子はパートの知恵と二人で、「梨花」というスナックをやっていた。木村は月のうち2度の割りで店へ行った。
彼は病院を退院して暫く兄夫婦の所に身を寄せたが、20年の空白で、スッカリ落魄した彼を見る村人達の冷ややかな眼差しに耐えきれなかった。学生の頃、長期の休みになると、よく働きに行ったことのある、大阪の新世界へ飛び込んだ。ドヤ街に寝起きし、労務者となり肉体を酷使するのは覚悟していた。栄養の偏りと激しい肉体労働が、彼の相貌を年相応のものに変えた。しかし、クスリを切らすと、途端に不眠に陥った。クスリが無い時はアルコールの力で眠った。
数年経って帰った。そして、病歴を伏せて、今の会社に勤めた。
休みの日偶々入った碁会所で夏子に会った。そこで夏子が「梨花」というスナックをやっていることを知った。
「木村さん、来月の6日、時間あります?」
客の少ないある日、夏子は水割りを少し口にして、彼にきいた。
「日曜日なんですけど、青蓮寺へ行ってみません?」
皆覚寺の前で待ち合わせることを約束して店を出た。
知恵は、バスセンターの人混みを避けた所で待っていた。知恵は店でアルバイトをしている女だった。
「ママ、今日は甥っ子の運動会なの。ちょっと顔を見て来ていい?」
「アラ、運動会なんて何十年ぶりかしら。木村さんも運動会を見るのは久し振りでしょう?」
夏子は、彼女らしい婉曲な言い回しで、木村の同意を求めた。木村も運動会を見たいと思った。
小学校の周囲は、駐車する余地は全くない程、父兄のクルマで溢れていた。
クルマを駐(と)める所を捜してから行くと、2人を先に降ろした。クルマを置く場所は、意外な所にあった。
クルマを降りて、会場で夏子達を捜すのは容易ではなかった。会場には彼の学校時代の様に、飲酒する父兄は全くいなかったが、子供達の競技に一喜一憂する姿は、昔と変わっていなかった。
夏子達を捜すのを諦めて、木村は本部席の横に立って運動会を眺めていた。
本部席のテントの中では、それぞれの役目に応じて色分けされたリボンを胸に付けた子供達が、テキパキと会の進行を補助していた。
木村は、傍らを行き交う小学生達を眺めながら彼らの体位の向上に目を見張った。彼と肩を並べる程の背丈の子供が何人もいたし、女の子の胸の膨らみにも驚かされた。
どの子も、スラリと伸び切った健康的な肢体を持っていた。
真っ黒に陽焼けした、立派な体格の若い男子教師の指揮で、父親達の綱引きが始まった。 作業着の者やワイシャツの袖を捲った裸足の親達が、子供のために一日を割いて楽しんでいる。彼より若い父親達が殆どだった。
紅白の鉢巻をキリリと締めて、互いに声をかけて綱を引き合った。その姿を若い母親達がビデオカメラに撮っていた。
勝負は、紅組白組が、それぞれ1回ずつ勝ちを分けあった。父親達は、若い教師の振り上げる旗に合わせて勝ちどきの声を上げて退場した。
本部席の後ろの校舎の2階に取り付けられたスピーカーは、ボリュームを一杯に上げて「天国と地獄」を流し始め、6年生全員による組体操の始まりを告げた。
入場門には、既に生徒達がひしめき合っている。
木村は、子供達のゲームを見ているうち胸の奥から訳の分からない哀しみが込み上げてきた。
ピストルの火薬が破裂して、怒涛の様に子供達が本部席を目指して進んで来た。
子供達の歓声が、スピーカーから流れる軽快な行進曲と複雑に混じり合った。
木村は、精一杯張りつめていた気持ちが、突然弛緩して熱い物が込み上げて来るのを感じた。彼は、その場に居たたまれなくなり、人目を避けて目頭を拭くと、クルマへ戻った。 「すみません、お待たせして」
二人をおろした場所で待っていると、知恵がドアをノックした。
「待ってたんですよ、随分と。クルマ、駐める場所、無かったんですか?」
知恵は、短めのスカートの裾を気にしながら助手席に座った。
「きょうは運動会に誘ってもらって、本当によかった」
「あらいやだ。運動会、ご覧になったんですか?だったらわたし達の所にいらっしゃれ ばよかったのに。でも、そう言って頂くと嬉しいわ。ねぇママ」
知恵は、後ろを降り返り、夏子と顔を見合わせた。
夏子は、色づいた稲穂の波を見ていた。
「もうスッカリ秋なのね」
夏子は、誰に言うともなく言った。
夏子は、店で濃い目のルージュを引き、間色の洋服をつけて店に出ることが多かった。 碁会所にも同じ様な化粧で姿をみせるが、いつも引っ詰め髪を結い、大島を着ていた。 夏子には肌の衰えが見え始め、木村よりひとつか、二つ年上の様に見えた。
「わたし、貰い手がないから‥‥」夏子は口癖の様に言った。
8年前、亭主と別れ、今の商売に入ったとも言った。
「夏子さんは、青蓮院には良く行くんですか」
ルームミラーの中の夏子を見ながら尋ねたが、夏子は否定も肯定もせず、ただ鏡の中で静かに笑った。
「ママはね、木村さん。毎年一度だけ、この季節が来ると、青蓮院にお詣りに出かける のよ。きょうは、生憎わたしがお供してますけど、いつもはステキな男性と二人きり なのよ。どう、気にならない?」
知恵が代わって答えた。木村は知恵の話を聞いて、内心嬉しかった。
夏子達は、彼が4年前まで、20年間も精神病院で暮らしていたことなど全く知らずにいる。木村はお互いの気心が充分知れるまでは、この状態を保っておこうと思っていた。
木村は、青蓮院の道筋がよく分からず、たびたび夏子に説明を求めた。
クルマは山道に入り、両側にうっ蒼と迫る竹林を抜け、九十九折りの坂道を暫く走ると、数軒の窯元のある人里に入った。
「さあ、やっと着きましたわ」夏子はそう言って、途中で買い求めた小さな包みとハンドバッグを手にした。
右手の少し小高い場所に樟の大木が1本ありそれに見えかくれして小さな堂宇が建っていた。山門を潜って境内に入ると、夏子は境内の奥にある庫裡に向かって真っすぐ歩き、玄関のベルを押した。庫裡の縁側のガラス戸の中に黒猫が一匹寝そべっている。
「残念ね、今日はお留守らしいわ。こんなことは初めてなんですけど」
夏子は、ハンドバッグから手帳を取り出し、来訪した旨の走り書きをし、玄関にその紙を挟んだ。
木村は庭園の泉水を見ていた。
池はさほど大きな物ではなかったがモーター仕掛けのポンプが据えてあり、ポンプの吐出口から勢いよく水が飛び出していた。池の中を十数匹の鯉がユッタリと泳いでいた。
木村はひときわ大きな真鯉を見ていた。2尺は尤にある見事さだった。
色とりどりの錦鯉の中を、青みを帯びた真鯉は悠々と泳いだ。木村は池の端に腰をおろし、食い入る様に真鯉の動きに見入っていた。
鯉は、木村が近くで見ているのを一向に意に介さない風情で泳ぎ回った。
竜吐水の様に吐き出されるポンプの吐き出し口に行くと、口ひげを貯えた口を大きく開き、旨そうに水を一口飲み込んだ。それから、また池の底を泳いだ。 帰路に就いた時は、既に夕暮れ時であった。
昭和18年11月20日生 54歳
精神障害2級
大学を卒業して、就職4カ月後精神分裂病発病。
以後、通算14年の入院生活。
現在、無職通院中