2000年を機に、新シリーズ「萌の国から」を始めます。
車椅子に乗った小さな命から見える世界はどうですか。
不思議の国からの1通目の便りです。


 

その1

 西暦2000年まであと1週間という日曜日。我が家では恒例の《もえのbrithday&Xmesパーティー》が開かれた。

 もえは、1995年12月15日午後1時22分、産声をあげた。1歳の誕生祝で「もちふみ」をさせたいというおばぁちゃん。誕生日のその夜から、一人、久留米の聖マリア病院のNICUに入院したまま、100日以上も過ごした初の女の孫がいとおしかったのだろう。

 一方、8年間以上も一人っ子として、我が家で大きい顔をして、わがままし放題過ごしてきた兄の光平としては、24日のクリスマスの方が気にかかる。この二つの難問を見事にクリアできる、まさにグットアイデアとしてこのパーティーを始めた。二人のおじいちゃん、おばぁちゃん、そして父,母、兄。司会進行、プログラム作りはもっぱら兄の役目。今年はうなぎにしようか。おすしにしようか。ケンタッキーの予約と、ケーキにビールに……と、母の方は忘年会気分。結局、もえは酒の肴に甘んじているのが事実。

 1999年12月。もえは4歳になった。

 大きなチョコレートケーキにろうそく。光平がもえの横から吹き消す。全く何があっているのか訳のわからないもえだが、いつもになく、にぎやかな我が家の様子を、全身で感じているのか、手足を思いっきりばたつかせる。「あ〜あ〜」と発声練習。不思議なもので、4年も年月がたつと、この一連の仕草を見るだけで、もえの体調や具合が病院のどんな医者よりも的確にわかる気がするから不思議だ。

 

その2

 もえは、町中の開業医の産婦人科で帝王切開にて産まれた。12月15日の午後から手術しましょうという、いわば計画出産である。まあ、9年前の出産で中毒症のため急遽微弱陣痛の段階で帝王切開に切り替わった経緯もあったし、もえの場合は子宮ないで10ヶ月過ごした割に、2500gほどしかなく、かえって子宮内で育てるよりも、外に出してあげましょうとのことだった。こう言う場合、産婦人科の医者としてのカンみたいなものがあるのだろう。もしやということが頭の中でよぎっていたに違いない。なぜなら、この9年のうち、立て続けに3度も流産したため、習慣性流産の検査の紹介状をもらって大学病院にまで通ったことがあったからだ。

 帝王切開とは手術台の上とはいえ、下半身のみの麻酔のため、すべてのことが瞬時に理解できる。会話もはっきりわかるし、辺りの様子も察しがつく。確かに、もえの産声は弱弱しかったが、聞こえた。血まみれのわが子との体面も、医者からの「元気な女の子やったよ」の言葉とともにすぐにできた。そのあと、連れ合いや母や父をぼっーと見ながら病室で眠りについた。

 

その3

 誕生のその夜、手術の痛みが出てきた深夜、突然の医者の来室。祝い酒でいい気持ちになっていたていた連れ合いに連絡。聖マリアから救急車が来る。「口蓋裂」がありミルクを飲み込む力がない、とりあえず聖マリアに搬送して、ほかの検査もするとのこと。ベットから動けないため、新生児室の保育器のわが子との体面もできない。その思いを感じてか、当直の若い看護婦さんが、ポラロイドカメラで写真をとって来てくれた。すやすやと気持ちよく眠っているもえとの2度目の対面だった(これからあと、とうとうポラロイドカメラを購入するはめになった)。

 寂しく病室でおっぱいを絞り出す毎日。二学期もあと少しという忙しい時期、その冷凍した母乳を、近道を探しながら運ぶ連れ合い。入院していた私をきづかってか、そのとき聖マリアのNICUでもえが何度か呼吸困難に陥り、危ない状態だったことはあとで聞かされた。

 1995年の暮れ、退院したその足で聖マリアへ。ずらりと並んだ赤ちゃん。保育器の中で小さな紙オムツ一つ。心電図などをとるコードがベタベタと貼られ、鼻から胃まで管を通してここから母乳を注入する。ただ、黙って立ちすくむことしかできなかった。

 

その4

 インフォームドコンセントというのか、医者と患者との会話が大切なのはわかるが、もえの担当の若い女医さんは、淡々ともえの最悪の事態を話す。あとでこの担当の新生児科の医者だけでなく、形成外科、整形外科、耳鼻咽喉科、小児歯科、言語治療室などなど実に様々な医者などに出会うことになるが、話し方の差はあれ、必ず、予想しうる最悪の事態を保護者に伝えた。その時は打ちのめされた気がしたが、今にして思えば「大丈夫ですよ。」などとぬか安心させられるより、はるかによかった。

 最近、ヒトゲノムの研究とかで、22番目の染色体が解明されたそうだが、もえは、この22番染色体と11番染色体の1部が多く、それがくっつき合って小さな1本ができているそうなのだそうだ。通常46本といわれる人間の染色体が、もえの場合は47本なのである。聖マリアを退院するとき紹介状として渡されたもえの症状の欄に、詳しく記載されている。この紹介状のコピーをお母さんもきちんと見て、持っていてくださいと渡されたのには、感心した。子どもにとっての一番の医者は親だと言っているのは毛利子来さんだが、なるほどとうなずけるし、それを認める医者もありがたい。

 

その5

 もえの症状はすべて染色体異常に起因するものらしい。染色体異常と言うと、「ダウン症」しか知らなかった。でも、考えてみれば46本もある染色体だ。どこかの1本ぐらいおかしいことはそう珍しくはないのではないか。医学の進歩は反面、おそろしい。

 合併症として、軟・硬口蓋裂、咽頭骨軟化症、股関節脱臼、副耳、あとでわかるのだが中程度の難聴、そのほか全身の筋肉の緊張がなくぐにゃぐにゃしていること。何度か心電図を取ったりしたが、心臓や内臓には合併症は見られなかった。発達については、本当に前例がないということはありがたいことか、困ったことか、医者も「わからない」と言う。この子が成長したいように成長していくでしょう。この子のペースでつき合ってください。

 養護学校の教師として、はたまた多くの障害者の知人として、人より多くの障害児・者とすごしてきたはずなのに、わが子となるとどうにも分からない。前例がないことは、希望が持てることなのだと自分に言い聞かせる日々が続いた。とにかく、合併症の方は、一つ一つクリアするための治療をしなければならないのだ。ワーキングマザーとして働き続けたいという思いだけはあったので、とにかく育児休暇の切れる1才のもえの誕生日までには、なんらかの見通しが立ってほしかった。そんな親の思いとはうらはらに、もえはすでにマイペースを決め込んでいるようだった。

 

その6

 もえが産まれてからつけ始めた「もえ’SHistory」と名付けたノートも、この春15冊目を数える。その1ページ1ページはもえと我が家の一日一日の歴史でもある。

1996/4/4(木)

 もえ3ヶ月と20日。桜は満開。でも肌寒い。もえが産まれたのは真冬。聖マリア病院まで通う車窓の風景は、ほとんど色のない世界だった。今年の冬は例年より寒かったのだが、その12月、1月、2月をすっかり20℃で管理されたNICU.GCUですごしたもえ。しかし、季節の移り変わりは確実にやってきた。久留米まで通う道では、麦は小さな緑色の穂を出し始めたし、「かちがらす」の巣があちらこちらで完成しているし、色とりどりの草花、木々の新緑の葉が顔を見せてきた。

 延び延びになっていたもえの退院も、栄養チューブと注射器、携帯用酸素ボンベとともに4月6日(土)に決まった。でも、これからが大変だ。

/もえ’SHistory vol.2

 事実、退院してからのもえのいる生活は息つく暇もなかった。1日6回の授乳。時間をかけて特殊なほ乳瓶で飲ませ、その残りを注射器で胃の中に注入。そしてその消毒。ちょっと泣くと喉が細いため、軽いチアノーゼのようになるため、泣かせまいとあやす。股関節脱臼治療のためのリーメンベルトのためおしめもお風呂も一苦労。定期的に通院するのも一日がかり。家族のスケジュールはもえを中心に動く。でも、これが我が家では、当たりまえのことになっていた。

 

その7

 1年後の育児休暇がきれるときまでにはなんとかなるだろう。漠然とかなり楽観的に考えていたものの、実際、「障害」児の母親がフルタイムの仕事をするとなると、社会には大きな壁ばかりがあるのに直面した。退院の時、1年の内には体重も増えるだろうし、口蓋裂の手術もできるでしょう。股関節脱臼の方もめどがつくのではなどといわれていたので、この1年間さえ頑張れば、という甘い考えもあった。もえのマイペースは、そんな私の計算をことごとく破っていった。

 

その8

 まず、6月の風邪をこじらせ肺炎になり、大牟田市立総合病院に入院。10月、嘔吐と共にチアノーゼから呼吸停止に陥り、初の119番通報(この119の救急車の我が家への出勤はその後も続き、通算15回くらいになるだろうか。最近では、我が家のタクシーがわりとなっている感もあるかな)

 そんな時、その年から公務員に導入された「看護欠勤」と巡り合った。まだ管内でも、何件しか前例のない制度ではあったが、これを使わない手はない。さっそく、事務の先生と打ち合わせ。医者の診断書、その他準備すると、最高の90日の「看護欠勤」が認められた。この時の制度はまだまだ不充分なところが多く、あくまで「欠勤」にこだわり、代替の職員は一切採用しないとのことであったが、粋なはからいというか、「看護欠勤」にもかかわらず、非常勤ながら代替の職員が配置された。ほんとにたまたまであり、ラッキーとしかいいようがないが、我ながら、うまく綱渡りをやっているもんだと感心してしまう。

 とにかく私の職場復帰は、もえ1才3ヶ月の春、1997年4月へと延期させた。

 

天領保育所のお友達と。中央の膝に抱かれているのがもえちゃん。同世代の子といる時が一番生き生きするのかな。 麦藁帽子をかぶって夏休みのおでかけだ。

 

その9

 思い出してみると、私が養護学校に勤務している時に出会った多くの「障害」児の母親は、仕事をしていなかった。たまに日勤の仕事をしている母親は同居の祖母などが子どもの面倒を引き受けていた。父親と別れる家庭も多く、ほとんどの場合、母親のもとに「障害」児が引き取られる。生活のために保護をもらおうとすると、自家用車が使えなくなる。重度の「障害」児にとっては車は必需品なのにである。ならば何か仕事でもと相談する。

「保護をもらわずに、仕事に出られるのなら、お子さんを施設に預けるしかありませんね」と、冷たく言われたと、語ってくれた母親がいた。

 バリアフリー・「障害」者にやさしい街づくりとはいうが、「障害」児の母親もまたバリアフリーでなければならない。そのために行政が何をするか、ではないのか。

 ともあれ、1996年4月、私の職場復帰。もえ1歳3ヶ月。先天性の股関節脱臼を治療するためリーメンベルトをはめ、口蓋裂手術のための診察、その他リハビリなどなど。病院の治療カードや予約カードがさいふなどには到底入らない。もえ専用にと手帳を買い、予定を入れこむ。大牟田市立病院小児科、聖マリア病院新生児科・形成外科・言語治療科・小児歯科・整形外科・耳鼻科・米の山病院小児リハビリ・小児科。予定を立て通院するのが、もえにとっても、「楽しいお出かけ」である。

 気になっていた「聞こえ」のことも詳しく検査し、中等度難聴と判明。補聴器での効果が大と言うことで、補聴器をつける。

 1才の誕生日にはすっかり、口からうまく飲み込む食事がとれるようにはなっていたが、ていねいにミキサーをかける必要があった。1回の食事30分。おやつ2回も含めると1日目5回。

 このような、すべてにおいての介護は、私から連れ合いにバトンタッチされた。当時できたばかりだった「看護欠勤」は、最長3ヶ月しかなかった。私がダメなら、次は父親しかないのだ。

 こうして、私の職場復帰と同時に、父親によるもえの看護欠勤が始まった。

 

その10

 実は、この3ヶ月は、その後のもえをどうするのかについて動き回った日々でもあった。

 まず、市役所福祉課。とにかく、口蓋裂の手術までは、いろんな病気に感染するおそれのある場所へあずけられない。かぜ一つでもこじらせたら、救急車で搬送し、2週間の入院は必死だ。在宅でなんとか見てくれるような制度はないものか?と考えたからである。答えはNO!自分でベビーシッターさんを探してください、家政婦協会などがありますよという返事だった。小さな「障害」児がいるのにしかも、父親の収入もあるのに、なぜ母親が働くのか、「障害」児の看護は母親の仕事だ〜言葉としてははっきり出さないが、そう言う思いがひしひしと伝わる。

 家政婦協会に電話。「障害」がある子供へのベビーシッターが必要だと告げる。できれば、急な対応も必要なので、看護婦の免許のある方をとお願いする。

 ところが毎日で、しかも長時間にわたるので、必ずしも同じ人が毎日対応できないかもしれない。看護婦の免許を持った人が少ない。何より、その費用が膨大になることがわかってきた。

 いろんな知人・友人のつてで、もえを見てくれる「人」探しが始まった。

 その間、久留米の聖マリア病院新生児科に設けられた療育相談に行ってみた。久留米市では、各保育園には、いろんな子供に対応できるようにと、必ず看護婦の免許をもった保育士がいるのだそうだ。もえを見て、このくらい元気だったら保育園でも大丈夫ですよと、ひとしきり話されて「大牟田の保育園では、どうですか?」と、質問が返ってきた。

 

その11

 その後、保健所を訪ねることがあり、このことを聞いてみた。当時、大牟田の保育園で看護婦の免許をもった保育士がいる保育園は2、3ヶ所しかなかった。(この看護婦の免許にこだわるのには、理由があった。養護学校で今まで在宅だとされた子どもも毎日学校に通いたいといった運動が展開されてたころ、吸入、吸引などは医療行為だから、養護学校の担任教師などがやってはだめだと言われた事があったからだ。医療の目覚しい進歩の中では、吸入、吸引はまさに「生活行為」であるととらえられている。が、しかし、文部省管轄の学校はなかなかそうは考えてはくれない)

 そうこうしているうちに、もえのことを看護していいよとOKをだしてくれる人がいた。

 Sさん。養護学校でいっしょに勤めたことのある若いお母さんである。なかよし会のお母さん3人。ダウン症の子どもをもつ3人のお母さんである。

 連れ合いの看護欠勤の期限が切れる前には、もえのことをいろいろ知ってもらう必要があった。

 夏休みには、さっそくローテーションを決め、介護に入ってもらった。

 こうしてもえは、1才6ヶ月を迎える頃より、新しい出会いの中で育てられることになった。

 

その12

 

 もえs Historyノートは、この日から「書き手(記録者)」が増えた。朝食は何をどのくらい食べたか、とか、ウンチはしたのか、熱はどうか、お昼寝は?そして、もえの様子は?など。その時に介護に入った人が記入していく。それを次の人にバトンタッチしていく。一日のうち、3,4人の筆跡のある日もある。

 でも、言葉で自分のことが伝えられないもえにとっては、このノートは、生命線の一つとも言える。

 時々、忘れかけたころに起きるけいれん発作に対しても、このノートの冊数が増えるたびに、対応の仕方にちょっぴり余裕が持てるようになった。とはいえ、このけいれん発作がいつ起きるかわからない。もし昼間、介護に入っている人の前で起きたら?との不安もある。それについても話をして、部屋の壁に、病院への電話(電話番号、Drの名前など)、救急車への電話とその言葉まで貼りだした。「○○町の○○○の横の坂田もえ、0歳の女の子です。今、けいれんでチアノーゼを起こしています。かかりつけの病院は市立病院です。すぐきてください。」

 実は、もえ10ヶ月の時、初めてけいれん発作でチアノーゼを起こし、呼吸困難になったとき、あまりに取り乱し「ちょっと救急車に電話して」 と、あわてる私に、上のお兄ちゃんが、「お母さん、お母さん、救急車は電話番号は何番?」と、忘れてしまったという経緯もある。(不幸中の幸いというか、このけいれん発作は、朝夕二回飲むフェノバールという薬の血中濃度がおちてくる夕方すぎに集中していたため、全く介護の人が救急車を呼ばなければならないといった場面は、これまでには起きていない。さすが、もえなりの知恵か)

その13

 1998年を迎える頃から、もえの介護を中心的にしてくれたSさんの出産もあり、あらたなもえの介護人探しが始まった。 いつもの綱渡り状態というか、泥縄式というか、色々な人のつてで、子ども劇場などに関わっているHさん。その知り合いのMさん。Nさん。

 寝返りだけは上手になってきたもえは、少しずつのども広くなってきて、ミキサー食から少しずつ卒業していった。

 とはいえ、まだまだ食べさせるのはむずかしい。(口蓋裂のために、口の中に「オプチュレーター」というものを常時はめている)

 新しい出会いの中でも適応力が早いというか、はたまた悲しいかな親と他人との区別がつかないのか、もえは誰に抱っこされても平気でアーウー、ニャンニャン、マンマンマンなど、うれしい声も挙げるようになってきた。

 その年の春。身体障害者手帳を申請。(療育手帳は後回しにした)姿勢保持のための車椅子も申請。

 

その14

 1998年、夏。聖マリア病院で口蓋裂をふさぎ、小さな副耳を3つ切除する手術をすることになった。

 リスクの多い手術(全身麻酔をかけるなど)であるため、手術に直接かかわる形成外科だけでなく、麻酔科、新生児科、耳鼻いんこう科などのドクターと連係をとっての手術になった。

 入院は、8月31日=夏休み最終日の前5日より、3、4週間ほどの予定。手術後しばらくは一般病棟ではなく、完全看護のある小児ICUで過ごす予定ですすめられた。

その14.2

 退院後、しばらくは通院での定期的な検診もいる。食事訓練もある。この口蓋裂の手術後は、指しゃぶりなどで口の中に指をつっこんだりしたときに、縫合したあとが破れてしまうことがあるため、丸い手作りのつつ状の「手かせ」をしばしばくっつけて過ごすことになる。その管理もいる。・・・・・などなどの理由で、夏休みあけの9、10月の2ヵ月は、学校を休む事にした。

 もえにとっては、またまたラッキーなことに、昨年度までは「看護欠勤」という制度しかなかったのが、1998年春から「看護休暇」制度がスタートしていた。南筑後教育事務所管内では、初めてという制度利用者として、2ヵ月使うことにした。

 「初めて」ということが幸いしたのか、初日の9月1日より、終了する10月31日までの2ヵ月の間、一日も空白の日がなく、代替のクラス担任が配置されることになった。しかも、8:30〜17:00の完全なる常勤講師だ。

 夏休み明け早々の学校は、運動会の準備で忙しい、その中、常勤講師の配置は、本当にうれしい。(とはいっても、これが当たり前に運用されるべきだと思うが・・・・・。)

 暑い8月の終わり、もえと私は、新しく届いた水色の「小さな車いす」とともに、聖マリア病院形成外科病棟に入院し、その生活が始まった。

 

 20世紀最後の日、ショッキングな事実を知る事となった。何気なく開いて見ていた新聞の「今年亡くなった方々」、その中に「山口天音/19才」を見つけたのだ。重度の脳性麻痺の天音さんのことをつづった「あまね通信」が発行されていること、その母、山口ヒロミさんは、天音さんのことを銅版画で描き、その父山口平明さんがつづっている事を知ったのは、ほんの一年前の事だった。ヒロミさんは大阪の教員であった。が、天音さんの誕生後、教員をやめた経緯もある。「不思議の天音〜イノチの際で共に棲まう私たちの日々は」は、この6月に出版されたばかりである。6月、19才になったばかりである。

 一方的な思い入れをしてしまった私は、一度は、萌も一緒に、大阪の天音さんをたずねたいなと、内心密かに企てていたのだが、実現できぬこととなってしまった。

 どういう理由で新聞掲載になったのかはわからないが、小渕首相、竹下登、ミヤコ蝶々などと並んで「山口天音」のイノチが消えたのだ。

 しかし、そんな私たちにも、21世紀はやってきた。萌、5歳。今年は年長。つまり就学時検診と小学校入学をひかえた年なのである。「萌の国から」の連載も2001年版として、再スタートを切る。新たな100年の物語の始まり〜始まりです。

その15

 全身麻酔の手術なんてするもんじゃない。

とにかくそのまま目が覚めないんじゃないかと不安になる。大きなリスクを抱えた萌の手術には、前日まで、いろいろな説明が続いた。医学的な事に関しては全く知らなかった

説明が続いた。医学的な事に関しては全く知らなかったのだが、口蓋裂の手術の仕方にはいろいろな方法があって、どこをどう開いて、どう縫合するかなど、けっこうていねいに説明を受けた。

 手術室から出てくるまでの3時間弱の時間。とにかく待った。とにかく祈った。ほとんど宗教などからは縁遠い私たちなのにである。

 「おかしなもので、大きなリスクを想定すれば、するほど、結果は順調にいくんですよ。」との、ドクターの言葉通り、術後の萌の回復は順調だった。面会時間だけしか入れない小児ICUへも3日ほど入っただけで、一般病棟に移ってもいいとの許可も出たほどだった。

 

その16

 口蓋裂の縫合と小さな副耳の除去手術もすみ、1998年9月13日、ほぼ20日ぶりに家に帰ってきた。退院したとはいえ、指を口の中につっこんだりしては、再手術にもなりかねないから、まだまだ「てかせ」といわれるものをはめての生活である。

 私の方は、1998年度から始まったばかりの「看護休暇制度」が、申請通り2ヶ月間認められ、2学期そうそうのいそがしい時期を、もえの看護にゆっくりあたることができた。この年はちょうどお兄ちゃんの6年生最後の運動会もあり、たまたま看護休暇中のため、応援にいくことができた。職業がら、わが子の運動会は見れないものと思っていたのだが、小学生最後の運動会〜応援団、鼓笛隊、騎馬戦、組体操などなどじっくり応援できた。これも、もえのおかげ!

 11月、私はまた元の職場にもどり、もえはまた家で、Hお姉ちゃんと過ごす毎日にもどった。その一方で、4月からの保育所入所のために動き回らねばならなかった。保育所入所は市役所の福祉課と決まっているが、昨年度のいきさつもある。ちょっと簡単な気持ちでなんてとんでもない。なんと言われるか、こんなことを言われたら、どんな風に切り返そうかなどと考え考え、福祉課へと足を運んだ。

 「障害があるその子のために」「その子にあった」というのは、あまりにあちらこちらで ちらで聞かされる言葉なのに、多くの場合、その裏に「排除」の思想があることが多い。もえのことにしても窓口での対応はまさにそのものだった。保育園の入所に関する法律が改正されたのを契機に、保護者が保育園を選択できるようになった。それは、障害の有無に関わらずに認められるべきなのだ。

その17

 もえと二人で、T保育園の門をくぐったのは、3月のあたたかい日だった。園庭では、きらきらした子どもたちの声がはずんでいる。どろんこになりながら遊ぶ子、木によじ登っている子、たくましい子どもたちが、むかえてくれた。直接もえを連れて行って話すということだったが、うれしいことに所長さんの方では、受け入れるために何を準備するか、施設面はどうかなど、具体的なことをまず聞いてこられた。

 今まで、色んなケースの障害のある子どもの就学に関してのトラブルを見聞きしてきたわたしにとって、ものすごくおどろかされたし、本当にありがたかった。

「うちの学校では、〇〇〇〇〇なので、対応できません」

「ちょっと手が足りません。この子のことを考えれば、施設が充実した養護学校がいいと思います」と丁寧に学校側が受け入れられない理由を先に考えているところが現実的にある。

 文部省管轄と厚生省(旧)管轄のちがいかも知れないが、保育園施設では「お母さん、もえちゃんのこと分からないから、いろいろ教えてください。これから、保育士みんなで勉強していきますから」 と最後に付け加えてくれた。

 その日から、もう福祉課に直接、入所をめぐって相談にいく必要もなくなった。4月からの入所を前提に、決定通知が市役所から郵送してくるより前に、春休みを利用してのもえとわたしの保育所通いが続いたのだった。保育園の方も、給食の調理員さんが、調理方法についてたずれなれたり、けいれんを起こした時の対応の しかたを具体的に決めたり、食べさせ方の練習をしてもらったりなど、とにかく熱心に取り組んでくださった。

 そうして、1999年4月1日、はれて入園式をむかえることができた。このときは、春休みにできたばかりのスロープが、もえを出迎えてくれたのだった。

T保育園のなかまたち

その18

 もえが入った年少さんのクラスは、本当に個性豊かな子どもたちばかりだった。もえも、もちろんその中の一人である。とはいえ、まだ3才の子どもたち。もえがごろごろ寝転がっていても、「あーあー」ぐらいしか言葉が出なくとも、丸ごと受け入れてくれた。もえの方も、全く?人見知りなどなく、すんなりと仲間入りができた。

 そんな子どもたちとは対照的に、もえのママの方は、まわりのお母さんたちが、なんとまだまだまだ20代なのに、驚愕してしまった。親子で公園などでいっしょに遊ぼうというときなどは、子どもと一緒に走り回ったり、すべり台をすべったりと楽しんでいる様子を横目で見ながら、40代ママグループ(私以外にも何人かいるのです)は、木陰でおしゃべり。それでも、車いすで移動するもえちゃんのママということで、みんなからすぐ覚えてもらった。

「もえちゃん、何でおしゃべりせんと」

「もえちゃん、まだ歩ききらっさんねえ」

など、気軽におしゃべりをしてくる子どもたち。相手が3才の子どもとなると、染色体のことなど話してもしかたない。

 日一日と過ごしていくうち、「もえちゃん、もえちゃん」と、もえの回りに集まってくる子がふえた。なかには、好き☆好き☆のCHU!の攻撃をしかけてくる子もでてきた。お茶を上手に飲ませる子。保育士さんといっしょに車椅子をおしてくれる子。いっしょにすべり台ですべってくれる子。

 もえの笑顔がたしかに増えた、笑い声をあげて笑うようになった。「あーあー」だけだった言葉?が、「まんまんまん…」「ちゃかちゃかちゃか…」などふえてきた。やっぱり、子どもは子どもの中で育つということが、実感!

もえの国からのワーキングママからのお知らせ

 もえも早いもので、今年度、年長さんになりました。保育園生活3年目を、親子ともどもエンジョイしていたのもつかの間、小学校への就学にいやおうなく直面せざるをえない時期になってしまいました。年々忙しくなる一方のもえママの仕事。今の状況の中で、もえの就学をどう考えたらいいのか、正直いって迷っています。

 仕事の関係で、学校の様子が手に取るように分かるのも、いやなものです。

 そんなもえママの愚痴や悩みを聞いてほしいなあ、そして、もえのこれからについてああじゃないか、こうしたらなんて、生きるヒント、たたかうヒントをもらえたらなあと思っています。日程を決めますので、ぜひ、もえママの愚痴におつきあいください。  

その19

 梅雨には、全国版のニュースにも登場するくらいの大雨が降った。諏訪川からほど遠くないもえの保育園のまわりは浸水で通行止め。園庭でも、プールがぷかぷか浮いていたそうだ。

 その梅雨明けのとたん、うだるような暑さが続いている。今年の夏は始まったばかりだというのに、本当に暑い。こんな時は、もえの体内温度も、ぐんぐん上がる。まるで、変温動物なのだが、それでも、大好きなプールにつかるとご機嫌である。昨年買ってあげたピンクの水着を着て、にこにこはしゃいでいるうちに、体温も元どおりに落ちついていく。

 今は、保育園のみんなと手作り大蛇山をひいて回ることと、大牟田の夏祭り「大蛇山」での「ちびっこ総踊り」に出演するのを楽しみにしている日々である。(その一つ一つの保育園の行事が、今年限りというのが実にさびしい限りです!)

 この夏、4度目の家族旅行を計画している。

 初めての旅行は湯布院温泉。畳の部屋で、内風呂があって、車椅子も使える旅館。あまり山の中などでは、すぐに救急車も来てくれないし、大きな救急病院もない。かといって都会のホテルでは、洋室で温泉もない。そんな理由から由布院に決まった。

もえも もうすぐ 1年生

 7月14日、もやいにて、もえの進学についての話し合いをしました。やっぱり地域の学校にこだわっていくのか、それとも、障害児学級を選ぶのか。養護学校はどうなのか。実は親としてのスタンスさえ決まっていないままでした。とはいえ、たくさんの方々、もえままの愚痴につきあってくださってありがとうございました。

 これからの方向性はまだわからないのですが、さしあたって、9月の就学時健康診断はどうするのかだけは、結論を出さなくてはなりません。また8月に、第2回目の話し合いを進めていくつもりです。時間が取れたら、参加してくださいね。

みほママ

その20

 携行品には、着替えなどはもちろん、1日2回の定時に服用している薬、とっさのときの座薬、携帯用酸素ボンベ、体温計、紙オムツ、食事をすりおろすためのおわん(すり鉢)とすりこぎ、スプーン、小さなカップなどなど、準備になかなか大変である。それでも、車に乗って出かける事が好きなもえは、車に乗ると目をらんらんと輝かせて、はしゃぐ。「眠ってたまるか」とばかり、大きな声をあげる。車椅子で歩き回る時も足をバタつかせておおはしゃぎだ。

 その後、南阿蘇、霧島温泉と泊まりの旅行へとチャレンジしてきた。この夏、どこに行こうかね?もえ。本当に年々、たくましくなったもえの成長ぶりに驚いている。

 もえのような染色体の異常のある子どもたちがつながってできたFOUR−LEAVES−CLOVERS(FLC/四葉のクローバー)という組織がある。染色体異常と言うと、ダウン症は良く知られているが、実に様々な異常が存在している。思えば23本が2対、つまり46本もある染色体のどこか一部が入れ替わったり   たり、少し多かったり少なかったりするのもうなづける。

 小さい頃、記念グランドで四葉のクローバーを必死で探していた。本当に見つけた時は、本当に幸せが来たような気がしたものだった。この四つ葉のクローバーもまさに染色体異常そのものである。もえも、私たちに幸せを運ぶ四葉のクローバーなのかもしれない。

 

2000年1月からスタートした「もえの国から」も20回の連載となりました。

もえちゃんも来年小学校。時の過ぎるのは早いものです。

さてさて、就学前のもえちゃんのヒストリーは、これで一段落となります。

もえちゃんの小学生編をいつかまた、書いて欲しいと思います。

今まで読んでくれたみなさん。ありがとうございました。

色んな人が読んでくれてて、連載が終わると淋しいという声も聞きます。

必ず連載再開をお願いしたいと思います。

もえちゃん君は四葉のクローバーですよ。ではまた。

 

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